2020年3月30日月曜日

志村けんが亡くなった。海外だとマヌ・ディバンゴがやはりコロナでなくなっていたけど、少なからぬ衝撃があった。

ニュースを知らず妻から教えてもらったが、聞いた直後はただ驚いた。もちろん喜ばしいことではないが、驚きに続く感情は悲しみではなかったし、政府の怠慢を怒るわけでもなかった。けっこうでかい声で「えっ」と出たのみだった。
ただ、TWで少し見た志村を偲ぶコメントはどれも白々しく感じた。

志村けんにそれほど思い入れがなかった僕でも驚いたくらいなのでそれなりのショックが巷間に走ったかもしれない。発症から2週で亡くなったという情報は素直に恐怖を感じる。
4月に入ったら緊急事態宣言もなされるか。志村けんが直接のきっかけ、という訳では無いが"そういう空気"が醸成される可能性はあると思う。

いっそ非常事態宣言がなされてしまえば、と思う。この発言は無責任だ。僕の場合単に働きたくないからだけだろう。個人事業主の方々が苦境に陥る可能性が高いのでそうした事態にならないほうがいいに決まっている。

何せマスクもまともに用意できない政府なのだ。近所にはいまだマスクの入荷がないことを知らせる貼り紙が掲出されたままだ。
"空気"で非常事態宣言を出したところでその後の補償は得意の自己責任論で片付けられかねない。

そういえば経産省の無担保融資、かなり大盤振る舞いのようだ。詳細は分からないけど「とりあえず借りようか」なんて発言もあったほどだ。
僕は貸付かよケチくせえなと思ってしまったが、そういうものでもないらしい。

話を非常事態宣言に戻す。出ない方がいいが、なんというか、現在は非日常であることを宣言するのも大切な気がする。繰り返すがこれは無責任な発言だ。
全くの憶測だが、人々に優しさを取り戻すきっかけになりはしないだろうか...いや、待っているのは疑心暗鬼か。

加えて経済活動は平穏無事な中で行われるものだということと、非常時にそれは制限されるということの再確認というか。あまり上手く言えないけど、「止めることが出来ない」というのはとても"良くない"ことのように思えて仕方がない。不健全て言えばいいだろうか。止めても再開出来る、というのが大切で、ブレーキが壊れたクルマのハンドルをあっちへ切ってこっちへ切って、みたいな状態というのはとても怖いし、それこそ「生きた心地がしない」。

一度、止める。それが出来るかどうか確かめたい気持ちがある。もし出来なかったら、それは間違っていると思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿