2012年4月14日土曜日

立ち食い蕎麦のことを書く

私は立ち食い蕎麦が好きだ。好き故に「ネギ多め」などと余計な注文をする連中に腹が立つ。

 今まで何度か書いている気がするし、もしかしたらこのブログの最初の方にも書いているのではないだろうか。だが脳内で同じことをジャグリングし続けるのは頭の健康に良くないとも思うので、書こうと思うたびに思いとどまっているのかもしれない。

 思いとどまっているとしたら、それは私の友人が「ネギ多めで」と注文することがあるからだろう。私は友人にそれは野暮だよと伝える言葉を知らない。それを「野暮」だと感じるのは私の勝手だから、とも思っているのだろう。にもかかわらず私の背中で「ネギ多め」という言葉が聞こえるたびにうんざりするので今夜は書くことにした。

 私が理想とする立ち食い蕎麦屋での所要時間は7分だ。注文(食券の購入)から食器を片付けて外に出る、ここまでで7分。本来蕎麦はファストフードなのでそれが流儀である。まして立ち食いなのだからとっとと食べてとっとと出て行くのがよろしい。

 ネギ多めでなどという時間がもったいない。無駄だ。故に野暮だ。無駄なことが野暮だとは言わないが流儀に反する。そもそも7分なのだからそんなことを言っていては食べる時間が減る。それだと下品な食べ方にならざるを得ない。
 ネギ抜きも半野暮だ。だがネギが減る分食べる時間も短縮されるし、盛りつけもケレンミが無くなってすっきりするのでアリとする。

 またネギを増やすということ自体無駄で、しかも意味がないし何しろみみっちい。おそらくネギを足すくらいなら無料だとわかってやっているのだろう。だが食べるものを増やすならその分カネを払え。
ここで私は面白い考え方をしていることに気付く。ネギを増やすならばカネを払えと思う一方で、仮にネギ増量という食券が販売されていたら「そんなことでカネを取るな」と、おそらく思うだろう。私は双方向で「ネギ多め」を禁じている。
 ネギを増やすことに意味はない。風味が多少増すだろうが、 そんな野暮天どもに風味などわかろうはずもない。そもそも、ネギの多寡による風味の差がわかるような人は、立ち食い蕎麦屋のほぐしていないネギにまずは文句を言うはずだ。そして立ち食い蕎麦屋のネギの切り方に文句をつけるような人は立ち食い蕎麦屋に入る資格はない。素晴らしい蕎麦屋はいくらでもあるのでそちらで十分に蕎麦と薬味のマッチングを堪能するのが良かろう。

 そもそも私は何にそこまで腹を立てているのだろう。
 おそらく「知った風な口をきく」その生意気な態度に憤っている。だいたいネギ多めと頼む野暮天の何割がその店のネギの量を知っているだろう。知らないくせにちまちま注文をつけるその態度が気に食わない。
 これに関連して牛丼屋でのつゆだく、日本酒と白ワインの辛口、ラーメン屋での麺固めなどの注文も私を白けさせる。こういうことを知った風な顔をして注文する連中は味音痴だろうと私は決めつけている。ちなみに池袋のグランドキッチンみかどの牛丼なんて何も頼まずとも汁物のようなつゆの量だ。普段つゆだくを注文する連中を連れて行きたいくらいだが、ここでは余談。

 こうした一連の注文をするのであれば、比較対象を示さねばならない。自分の好きな日本酒の銘柄のひとつを挙げ、こういった味が好きなのだが今日はそれよりもすっきりした後口のものを飲みたいといえば、私も少しは腑に落ちるところがある。
 しかし辛口を頼む野暮天の味音痴たちは、自身の言う“辛口”が世間一般の“辛口”と同様であることを信じて疑わない。いや、そもそも味自体に興味がないのだ。辛口も麺かたこってりもネギ多めもつゆだくもただの記号としてのみ消費される。その注文で料理の味がどのように変化するかなどということに興味がない。ネギ多めと頼んだ時に、彼の脳ではネギの味の記憶のみが再現される。蕎麦をすすった時の麺とつゆとネギの風味の交差など死んでも思いが及ばないだろう。

 近所のラーメン屋では脂の量だとか麺の固さだとか、店員が私の好みを尋ねてくるが私はあなた方の作るラーメンのことをそこまで詳しく知りません。

 食べ物にこだわることそれ自体は素晴らしいことだが、場所を選んでほしい。立ち食い蕎麦屋では蕎麦かうどんかを選ぶ以外でしゃべらないでほしい。そういう場なのだ。

 突っ込みどころなどわんさかあるだろうが、一方的な主観を敢えて書いた。もう立ち食い蕎麦屋の客に関する文句は書きたくないからである。

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