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2024年1月4日木曜日

石川県の地震に関しての覚え書き

  知ったのは実家近くの小さな公園。帰省して暇を持て余した子供たちと遊んでいました。

  夕方頃にどこかの親御さんが「石川県震度6だって!やばくない!?」と言ったのが聞こえました。正月の非日常感が危機感遠ざける感じがしていました。「やばくない!?」と目の前で遊ぶ児童のミスマッチが印象に残っています。

  実家に戻りテレビをつけました。Eテレさえも地震報道になっていて驚きました。それから大津波警報。「わゎ、まずいまずい」と思いました。焦るに近いでしょうか。起こってはいけないことがまさに今から起こるのを待たなくてはいけない、という落ち着かなさが腰の辺りを浮つかせる感じ。

  SNSが情報インフラとしてはむしろ退化していることもよくわかりました。私は直接デマの拡散には関与していません。タイムラインで「東日本大震災の映像を今回の津波だと拡散していた」と書かれているのを見たり、PayPayで募金しているが嘘っぽいとか、そんなのを眺めたにすぎません。まったく、使いづらくしてどうすんだよ。

  遊べて、非常時にはインフラとして機能する。これがSNSの可能性です。そしてこれは容易に実現が可能です。だけどできない。「本当の意味での"バカ"」が利用者のかなりのボリュームを占めているんだろうなと思います。

  これはXでの話。Xは「旧Twitter」と但し書きを入れないと違和感がありますね。そういえばThreadsは見ようとも思いませんでしたね。実はThreadsがいちばん情報源として有用かもしれませんが、文句と愚痴とつまらない能書きしか流れてこないので、おそらくその可能性は低いだろうと思います。

  いい情報にGoodをそして悪い情報にfuckを付けられるようにすれば...いや嫌がらせのfuckとかつけられんだろうなぁ...。有用な情報の拡散は歓迎できる、かつ悪い情報を抑え込むアイディアが必要です。ひと昔前は悪い情報をシャットアウトすることで良い情報も制限されてしまうことを懸念したもんですが、今となっては悪い情報が多すぎる、いやほんと純粋に量として多すぎるので何らかのの制約が必要でしょうね。

2015年3月8日日曜日

面白い記事でしたX:ニートの俺が商店街活性化に携わって気づいた

ニートの俺が商店街活性化に携わって気づいた
(VIPPER速報)

 なんとなくではありますが、商店街の活性化という言葉に魅力を感じています。地域の人々の濃密で朗らかなコミュニケーションが溢れる"明るいまち"というイメージがそこにはあります。
 しかし実際はそういうポジティヴなことだけではないようです。

・まともな老人はしっかり働いている 
40代未満なのに老人の性質引き継いだ三代目とかが一番たちが悪い 

まだ若いのに実態は老人。今後さらに老化するしかないから何もできない

 わかるわ、これ。以前飲み屋で働いてた自分に開店休業の洋服屋の二代目と喧嘩しまくりました。

・商店街ってよくみると合間にマンションとかあるだろ? 
あれ経営している大家ってニートと同じなんだよ 
親の代は商店経営しているんだぜ

 これはよく聞く話です。僕の近いところで聞いた話だと家賃収入で何もしないで暮らし、40代で酒浸りで凍死したという筋金入りのボンクラもいるわけですよ。

・つまり「衰退商店街」と言う問題がそもそもない 
じゃあ衰退している場所を賑やかにしましょうとイベントをやっても無理 
なぜなら商店主がもう今のままで十分で、面倒な商売をしたがらないから 

・商店街活性化って馬鹿にできないぞ 
商店が勝手にやっているんじゃない 
都内から優秀な経営のプロがやってきたりする 
なお、その講師費用も税金です

・東京の広告代理店や大学教授やコンサルとかに指導されて作ったイベントが 
実はあの老人がいっぱいいて風船を置いてるようなつまらないイベントなのです

・東京の優秀なコンサルタントとか、某大手広告代理店を撒きこんで(原文ママ)ノウハウを吸収しても 
実際はあんな感じだ

 あとB級グルメ参戦とかね。

この手の商店街活性で成功した若手創業者はいない 
みんな立ち上げてすぐに閉めちゃうか、クラウドファンティング(乞食)をやっている

 これは興味深いです。つまり地域の商店街の住民は結局のところ商店街の活性化を望んでいないわけです。そしてマイルドヤンキーなどのマーケティング用語を駆使して(違うか)地方の商店街を活性化させようとする"優秀なコンサルタント"や"大学教授"はとてもじゃないが本気ではないということがわかります。少なくとも実際に該当する商店街に介入はしていないことがわかる。そして、その地域の住民はイオンに出かけているのです。
 そう、誰も商店街の活性化を望んではいないのです。

 そしてそもそも問題ではないので解決(=成功)した人がいないというのも面白いと思います。なんかこの辺に絡んでいるヤツって貧乏くさい顔してますもんね。

 少し気になったので他を検索してみました。活性化法という法律があるんですね。

地域商店街活性化法の概要
法律の目的
地域商店街活性化法は、商店街が「地域コミュニティの担い手」として行う地域住民の生活の利便を高める取組を支援することにより、地域と一体となったコミュニティづくりを促進し、商店街の活性化や、商店街を担う人材対策の強化を推進するための法律です。

 実はこれ、目的の「商店街」の部分を「イオン」に置き換えてみてもなんら問題がない。実際にそうした役割を果たしつつあると思う。

・商店街にイオン作れば完璧じゃね?
>>76 
イオンが資本力を用いて 
商店街を改築すればいいのになと考えている
商店街とドッキングさせてモール化しようぜ 
あ、商店街のジジババは出てってくださいね

それ賛成 
あと商店街って路地が今熱いよ 
若い世代は路地裏の廃倉庫とかで芝居やったりライブやってるからね

 まあ、上記のとおりなわけです。しかしながら個人的にこの点は新鮮だった。これまで「地元の商店街vsイオン」だとばかり思っていたからです。むしろネ申という。
 本当に商店街を活性化させようとしたら商店街丸ごとイオンモール化させるのが手っ取り早いし実際的のようです。

 僕自身、この記事を面白いと思いつつ、しかしそのツボを掴みきれていないのでやたら引用ばかりしてしまいました。

 ところで僕たちは地域の商店街に何を求めているのでしょうか。

 個人的には情緒、失われていく面影への憧れだと思っています。早い話がAlways三丁目の夕日です。正直どうでもいいんだけど失われてしまうのは何か惜しい、そんな気がします。

 何かとは何だろう?

 地方のどこに行ってもだだっ広い道路にイオンとツタヤとブックオフがある、かつてそれは"ファスト風土"という言葉でもって表されました。
 ただファスト風土を嫌悪し失われる面影に思いを馳せているのはそこの住人ではないというのはよくあることです。

・たぶん商店街の存在価値って災害の起きた時だけだと思うわ 
災害時の救援とかは上手く行けると思う
商店街って100年に1度の災害とか50年に1度の大火の時にライフラインにはなると思うよ 
ただ、衰退は無理がないと思うわ・・・

 いやいやこれは重要です。災害時におけるリスクヘッジの一端を担いうるとスレ主は言っています。商店街活性化に関してかなり懐疑的・否定的であるにも拘らず、です

 ここに来て一本の線が引かれた気がする。僕(たち)が憧れていた面影とは"多様性"であり、多様性とは緊急時のリスク軽減に他ならない
 つまりこれはイオンの物流ラインが完全に死んだとしても商店街が生きていればなんとか食いつなげるということを意味しています。。

 そんないつ来るかわからない災害のために不採算部門を抱えておくの?と思う向きもあるかもしれなません。しかし2011年に僕たちは"100年に1度の災害とか50年に1度の大火"は本当に来るということを学びました

 アフリカには累計で数百兆円の金が投下されたがその殆どが中間団体に呑み込まれたという都市伝説があります。
 さらに僕の個人的な体験を少し語ります。かつて池袋のCDショップで働いていた時に和歌山の人から電話注文を受けたことがありました。注文しても買いに来るだけでカネがかかりますわ、と思いましたが和歌山に輸入盤を注文できるところがないと言う。実際はあるのでしょうけど、ちょっと調べたくらいではわからないわけです。池袋なんかに電話しなくても大阪にそういう店はあるだろうと思うのですが、とにかくファスト風土はそういう問題をはらんでいます。可能性が遮断されているわけです。

 商店街の主役たちにやる気がないが、なんとしても地域の商店街を死滅させてはならない。緊急用の食糧を備蓄するように商店街を保護しなければならないのです。まずは商店街の店は入りやすくしてほしいものです。
・商店街にある診療所とか歯医者って、実は「ご新規さん」を断っている 
理由は医者が高齢でなじみの患者以外の相手をするのが面倒だから。そして、やぶだから
 ほんとやってるかどうかわかんなくて入りづらい店が多すぎます。座間のとある酒屋は冷蔵庫に電源が入ってませんでした。お前らぬるいビール好きなの?っていう。そういう店は木っ端微塵になくなれと思いますがそれでもなお、僕たちは商店街を守らなければなりません。

 この話題はとかく面白いです。

2014年4月3日木曜日

いとうせいこう『想像ラジオ』

 これが出たのはちょうど1年前くらいですが、知ったのはつい最近のことです。「いとうせいこうは何故この本を書かなければならなかったか」みたいな感じの記事をどこかのサイトでちらりと見た気がするけど、いったいどこだったか思い出せません。帯に2014年本屋大賞ノミネートと書いてあるのでそれに関連したページで見たのかもしれません。

 (内容について多少触れます。ネタバレというほどではないと思います)

 赤いヤッケ一枚のまま高い杉の木の上に引っ掛かってしまった主人公DJアークが想像力を駆使してラジオ放送をするというお話です。その放送にチューンできたリスナーたちとともに送るラジオ番組。2011年3月11日に津波で亡くなった人たちの物語です。

 「亡くなった人はこの世にいない。すぐ忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
(『想像ラジオ』p.132)

 本当に人によって印象に残るシーンはそれぞれでしょうけど、僕が印象に残ったのはこの台詞でした。ほかにもボランティ同士の会話の、当事者でない自分たちが死者やその家族に思いを馳せるべきか否かというやりとりも印象に残りました。亡くなった人たちの思いを共有できる、なんてのは思い上がりだ、いや共有しようとする努力はきっと必要だ、というような。

 引用した台詞に話を戻します。未曾有の天災だったはずなのに移譲に急速に風化することへの違和感が表れているのではないでしょうか。
 僕たちは「あの事」を封印しようとしているのではないか。「震災を思い出す事」を明確に禁止した人・事はおそらくいません。しかし、日々膨大なデータが氾濫し、情報という濁流は震災の記憶を流し去ろうとします。暴力的な情報の洪水は否応なく津波の恐怖を想起させます。祈る事、悼む事、悲しむ事、思う事が「何となく後回しにされる」ことで禁止される。僕たちは震災の被害を本当に悲しんだのだろうか。

 原発を巡る報道でさえ震災を政治化する事で悲しみを誤摩化そうとしているような気さえしてきます(多少誇張ですな)。<3.11>が人生(観)を変えたという人は間接的な場合を含めればかなりの数にのぼるはずです。それなのにその発端・根本はおざなりになっているのではないか。

 この作品はストーリーの展開や構成、または手法、文体などに感じ入る類いの作品ではありません。大団円は用意されていません(ちゃんとエンディングはあるけど)。そういうわけでAmazonのレヴューで低い得点がついています。所謂小説を期待していると薄っぺらい内容のように感じるかもしれません。しかしこの作品は通常の小説が目指す完成度とは異なる場所を目指しているのだと思います。
 この作品は旅館で部下を捜す男や暗闇に取り残された女、スーパーの仕入れ担当の男の話をただ読むだけのものです。読んで、その人のことを思うだけ。被害にあった人たちが元から遺体であったわけはなく、それまで、その最中にあっても普通の人だったことを思う、それだけなのです。
 ストーリーの厚みを削り込んでまで読者への要求を下げたのは僕たちが「思うこと」がとても下手だからだと思います。

思いを馳せる。たぶん一日一分で良いはずです。いや月に一分程度でも良いのかもしれません。

 ひとつ気になった点は合間に入る曲紹介でした。どうということはないのですが、読んでいてその曲が頭の中で流れないと読んでいて少し躓く感じがするのではないでしょうか(YOUTUBEで聞きながら、はちょっと興が殺がれる)。BLOOD, SWEAT & TEARSとか、そこまで有名なのでしょうか、などと少し思ってしまいました。著者の照れ隠しでしょうか。違うか。


2012年8月22日水曜日

グレーで居続ける忍耐力。

平川克美さんのツイート:

領土問題がかまびすしい。二国がお互いに自国の領土を主張し、黒白明確にすることを求めた場合、解決策は戦争以外にはなく、戦争は新たな領土問題を生み出 すことになるだろう。(お互いに相手の立場に立てば、同じ主張をすることになる)グレーゾーンというものがあるとまず認めるところから始めないと 

 

・これに対するリアクション

あなたの意見によると、あなたの家にいって、「この家はじつは僕の古くからの土地です。領土です」と言って、では、このままではケンカになりますね。で、グレーゾーンをとるんですよね。ということで、「じゃあ車と庭を」ってことで僕にくれることになるんですが。OK? 

 

現代の国際法では戦争で領土を分捕ることはできません。フォークランド紛争後も、フォークランド諸島の帰属についてイギリスとアルゼンチンの領土主張は対立したままです。戦争しても、実際、何の解決にもならないんです。 

続けての平川さんのツイート:

グレーゾーンの存在を認めれば、様々な方策がそこから出てくる。グレーゾーンは政治的な対立軸ではなくて、ブリッジだという発想ができないか。

 

・これに対するリアクション

そのグレーゾーンを50年続けた結果のツケが今回ってきた。放置し続けた世代の方に何を言われても若者は聞きゃしませんよ。説得力も具体性もありませんもの。


 ちょうどクラブと風営法のことを考えていて、ベターな状態というのは法整備でもクラブの廃絶でもなく、グレーな状態が延々と続くことなのではなかろうか、などと考えておりまして、このツイートが目に留まりました。

 1.の反応は、そういう言い方も出来るのかな、とは思いませんよね。この人、多分すげえ馬鹿です。OK? じゃねえよという。本州は韓国の領土だと言って、不良韓国人が沿岸に勝手に上陸しているという状況で平川さんが仰っているならこの切り返しも的を得ているのですが、現状では 隣との境界にある生け垣はどちらのものか、くらいの話だと思うのですがどうなんでしょう。
 それから3.のコメント。私もこれには若干の同意を示すことが出来ます。が、50年ではまだ足りぬのかも、という想像力が欠如しているような気がします。この問題は実は700年くらいかけて取り組むものだとしたら?

 風営法の問題もそうなのですが、焦点がバシッと合っている時分にあれこれ話を決めようとすると紛糾するのは当然で、それよりも双方が「もうこの話どうでもよくなってない?」となるまではグレーで良いのではないかと思うのです。

 その問題が「枯れる」のを待つ。その間に様々な事件が起こればその対応も蓄積されていきますから、枯れた頃には包括的な法整備が可能になるような気がします。法整備が完了するまでに起こる事件にはどう対応するのか。そこはもう警察なりヤクザの裁量に委ねるのです。ヤクザはともかく警察に事を荒立てないだけの度量があることが求められますが。

 領土問題にしても、問題が枯れるまで対話を続けることが大切なはずです。そのことを平川さんは述べていると思います。だけど私たちはそれを待つことが出来ないでいます。

(枯れる、というアイディアは私が参加しているSNSの日記から援用しました。それが好ましからざる場合は削除します。とかいってほとぼりが冷めた頃にまた書く魂胆ではあります)

 グレーゾーンが許容できない。かるく病気です。異常な潔癖。風営法からダンスの項目(だけ)を外して、という主張もある意味では潔癖性。今、風営法からダンス規制となる文言を削除したとしても結局は別の条文を適用されて摘発されるに決まっています。だとすれば風営法そのものを廃止すべきか。と、考えると潔癖性の病気具合が少し浮き上がってきます。

 この白黒はっきりつけたがる傾向は私たち全体に現れていると思います。摘発、規制を望む側が潔癖ならば同じくらいされる側も潔癖なわけで。どちらもクリアな解決を望んでしまっている。

 でなければ上記のOK? なんて高慢な発言は恥ずかしくて出来ないはず。そんなこと言ってないだろう、という当然のことも判らなくなってしまう。物事をクリアにすることと単純にすることを混同してしまっている。もちろん私にも当てはまる可能性がある話です。

 ドラッグや暴力はいかんよ、という一方で、クラブで生まれる陶酔も素晴らしいカルチャーだよねという。また酔っぱらって路上で騒ぐやつにはこれこれと言ってたしなめる。しばらくはこれを続けていくしかないと思うのです。表面的にはおとなしく、そして落とし所を探っていく。忍耐のいる作業だと思うし、たえず「クリアカットの誘惑」はおそってきます。
 それでもなお、グレーで居続けることがベターな戦略だと思います。完全に違法にされてしまうと私のような小心者は夜遊びできなくなるので。

大沢誉志幸“そして僕は途方に暮れる(Special Dance Mix)”


 今日は妻と近所の銭湯へ。

 そのまま一日を終えるのは惜しく、町田のディスクユニオンへ。なかなか良い感じの代物が購入できました。

 こちら。和物ファンクなA面も良いですが、今回はB面“そして僕は途方に暮れる”のスペシャルダンスミックス。
 “そして僕は途方に暮れる”は別にシングルでもリリースされています。
こちらに概要。
ウィキペディアに項目があるレベルのヒット曲、ということですね。


現代のダンスフロアの為にあらかじめ用意されていたのかと錯覚する程現代的なセンス溢れるNU-DISCOトラック。

PEANUTS RECORDSさんのレビューhttp://peanutsrecords.sub.jp/list.php?key=%C2%E7%C2%F4%CD%C0%BB%D6%B9%AC

 

 このレビュー、いいですね。時間を経てそこに新たな魅力が宿る。私の先輩であるSさんがミックスの醍醐味は時代とジャンルを越えた時だと仰っていましたが、流れている時間が「くしゅっ」っとこんがらがる瞬間は興奮します。




 柔らかなシンセフレーズが泣きのメロディを奏でながらフロアを優しく包み込む。いかにも80年代的なマシンビートに、エレピの音色と歌詞が乗る。ほのかに漂う喪失感がまた良い。
 コンピューマさんが【THE MILD】に出演してくださったときに、ラストにかけたのがこの曲でした。今は別の職場になった先輩・Hさんも思わずブースへ駆け込んで曲をチェックしておりました(Hさんは普段はこういうことをしないのです)。
 そのあと私が少しだけ曲をかけてパーティが終わったのですが、程よい宙ぶらりんな感じが漂っていたのは間違いなくこの曲の余韻でした。大団円ではなくて、宙ぶらりん。劇的な終焉って、現実へ引き戻される引力もまた強いんだと思います。真空状態になるとそこへ周囲から空気が入り込むように。
 そういえばアフターアワーズという言葉がありますね。ソフトランディング。素晴らしいです。

2012年8月12日日曜日

これだな。

すごいです。こういった人生訓の中でぶっちぎりの説得力。水木しげる、グレイト。特に努力は人を裏切るなんて毎回裏切られているのに絶対言えません。貧乏臭いのです。

 
「水木先生の考える幸福の7カ条」

第一条 成功や栄誉や勝負けを目的に、ことを行ってはいけない。


第二条 しないではいられないことをし続けなさい。

第三条 他人との比較ではない、あくまでも自分の楽しさを追求すべし。

第四条 好きの力を信じる。

第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第六条 怠け者になりなさい。

第七条 目に見えない世界を信じる

夜更かし、もう朝だ。

 FREEDOMMUNEにてMANUEL GOTTSCHINGのライヴを聴きながらこの文章を書いています。陶酔。

 ただ、YOUTUBEのライブ配信を見ていれば十分なインドア派。途中うとうとしながら、座椅子に座って、タイムラインを追っかけながら見ているくらいがちょうどいいです。mac買い替えて良かった。先代じゃこうはいかないでしょう。

 ポーズだけのパーティピープルです。混雑も疲労も明け方のタバコの臭いの染み付いた衣服もきっと嫌いなんだと思います。ええ。

 その前にやってたトークイベントの中継を見ながら、途中から書いたのが以下のメモ。
 
公娼を規制→私娼が増加。
・総数は変わらない

やくざが介入していないデリヘル、援助交際
・こうした女の子は非合法のブローカの管理下にある。
・警察の取り締まりが強くなれば援助交際デリバリー(非合法)の管理下にいた方が女の子が安全(逮捕されない)。

グレーゾーン金利撤廃
・むしろヤミ金融の増加(非合法な金利)。

風営法の規制強化→よりアンダーグランドで拡散する。
・予想していた事態。警察にとっても予想は出来ていたが、規制強化の「空気」には抗えない。

ラブホ、ガールズバーの摘発
・「接待」(ボックス席での接待)、かつては容認、今は規制強化。キャバもスナックも摘発の可能性。規制強化がクラブへ波及。

大阪のクラブ規制は沈静化→いま名古屋→次東京?
・法改正するしかない
・規制強化の傾向は変わらない(“新住民”の望み)
・法改正は世論形成が必要。
👉「性」に陶酔を求めることからの少女の撤退。愛のあるセックスさえも後退。

売買春の規制強化→アダルト動画への出演。新しい管理、管理=暴力、疾病から身を守る手段。

目の前から風俗店がなくなれば街はきれいになるという考えは全く間違い。

新住民に対応した新警察の誕生。
・90年代後半、寛容さが欠如「非合法は非合法だろう!」。潔癖。新住民の傾向「クルクルパーが増えた」

潔癖→グレーゾーンがなくなる。

ex.朝日新聞が国家を戦争へ導いた。軍部主導はむしろ神話。

クレイジークレーマー問題
・地域共同体が機能していれば抑制できる。
・地域共同体の機能停止、孤独化。抑制できない。

店側の問題、警察(やくざ)へのコンタクトがない
・地域とのコンタクトもない。地域の不満、苦情を無視していた
・警察へのコンタクト→やり過ぎの場合、教えてくれる

ディスコ→クラブ。やくざへのみかじめ料という制度がなくなる。


教室も家庭も地域も居場所ではなくなる

社会は「いいとこ取り」はできない。どこかにしわが寄る。しわを消す事は出来ない。しわは見えない所にあればよい?それは無責任、ならばしわが見える所にあった方が、可視化していた方が良い。

やくざを追い出すと中国マフィアが入ってきた

分断戦略に巻き込まれない
・ダンス「だけ」を風営法から外す=他の風俗は規制
👉分断を一度受け入れると、自分が所属している集団に新たな分断戦が引かれる👉最終的に自分が所属する場所がなくなる。
・風営法粉砕?学校の、自宅の隣にソープという状況に耐えられるか。
・クラブ規制の原因→エロが規制されるときに「無視」したから。
・クラブ規制の次はライブハウスが規制されるだろう。その想像力が必要。
・街は生態系に似ている。何かを潰すとその周囲も死んでしまう。「関係ない」ということはない。

多様性フォビア(恐怖症)

2012年7月30日月曜日

facebookなどを通じて感じたこと


 割とテンションが良好らしく、続けざまに曲の紹介を書いて、コンビニでタバコ買ってきて、「もう一本くらい行けるかな?」などと思っていましたが、別に書きたいことが思いついてきたので、現下ここに書き起こしている次第です。

 googleの2段階認証?ぼんやり登録してましたが、面倒です。そのうちgoogleにアクセスできなくなりそうです。googleやfacebookのアカウントはそのままほかのサイトの個人情報登録に利用しているので、今後、どこかで躓く気がします。

 この二つ、それからtwitterがインターネット上で個人情報を開示することのハードルを下げたでしょうか。というよりは「同期することの利便性」がより広範囲にわたって確認できるようになったことのほうが大きいでしょうか。

 私もmixcloudやInstagramのアカウントを作成するときにクリックひとつで(ほぼ)完了してしまったときには「便利だなや〜」と感心しました。

 mixcloudではfacebookのアカウントを使うので、私は自分の職業欄を削除しました。ストリーム形式なので著作権法はパスしている(英の法律では)ので問題はないのですが、それでも日本のCD屋で働いている人間が無許可で楽曲を使用したものをアップロードするのはどこか気が引けます。
私のミックスが問題になるほど話題にならない、という点は見落としていました。

 facebookの基本実名登録、という姿勢は私に無許可で楽曲を使用することにある程度の抑止力を及ぼしました。今後この傾向は少しずつ、緩やかに強化されていくような気がします。
 実名、職業、顔写真、出身地などその他プロフィールが正確であるほど「同期することの利便性」は向上します。facebookで言えば友人が見つかりやすくなります。趣味も公開していればそこから交友のきっかけが生まれるでしょう。
 その利便性を確保するために、たとえばmixcloudの利用を控えるという選択肢も当然あると思います。自分のプロフィールにケチがつかない選択、といえばいいでしょうか。

 facebookを起点にしたインターネット上のプロフィールの運用は「見られても恥ずかしくない」ものになっていくでしょう。ここで「緩やかに強化」される傾向とは、公開されていないプロフィール、たとえば職業欄が空いていれば「公開できないような(卑しい)仕事をしているのかな」とネガティヴに判断されてしまうような傾向です。
 今なら空欄に対して「公開したくないのかもしれない」と「公開できないような何かがあるのかもしれない」という予想のどちらをするかと言えば圧倒的に前者なのですが、今後、「利便性」が拡大したおりには後者の判断がなされてしまうことも考慮すべきだと思います。
 利便性の拡大。たとえば就職時にネット上に公開されているプロフィールを利用すること。 これが一般化すれば公開されていないことに対してネガティヴに捉えられる可能性は十分にあります。
 今後、プロフィールを公開しないということは仮面舞踏会でつけるような仮面をして人と会うようなもの、と捉えられるかもしれません。想像していただけると思いますが、どこかの会社の営業の方が仮面を付けて営業にくれば、「ふざけている」と思うことでしょう。非公開はそれなりに信用を削ぐ行為になろうかと思います。

 ただ気をつけなければいけないのは自分がその立場にたったからといって、ネット上の人すべてがその考えに賛同しているわけではないという点です。プロフィールなど、いくらでも嘘をつくことができますので、悪事用のプロフィールを作成する輩も当然おります。自分(のプロフィール)に攻撃してくる人間も当然いるでしょう。「私は騙さないから、あなたも騙さないでくれ」というのはとても美しいし、「利便性」も最大化するでしょうからおおいに主張すべきですが、かといって皆がそれを承諾してくれるわけではありません。

 ではネットの匿名性はなくなるでしょうか。
 まあ、なくならないだろうというのはわかるのですが、少し複雑な気分です。

 かつて宮崎哲弥さんがネットの匿名性についてテレビでコメントをしたの思い出します。十年以上前だと思います。
 そのとき宮崎さんが匿名の必要性の例として挙げたのが「たとえば圧政下で重要な告発をするとき」でした。
 しかし北アフリカの民主化に際し駆動したのはfacebookという実名性の高いメディアでした。そのことが私の見解を複雑なものにさせます。あの一連の活動が匿名でなされていたら、結束を生んだでしょうか。それともこれは怪文書だという猜疑心を掻き立てたでしょうか。本人が特定できるプロフィールがある程度公開されている、というある種のリスクが信頼を生んだのでは、と思います。

 難しいです。

 信用に足る情報を発信していれば匿名でも通用する。が、そもそもその信用は今後「実名である」ことに依拠するかもしれない。だがしかし発信される情報が信用できて、かつ発信者が匿名であることを望むのであれば「利便性」という点から匿名は許されるかもしれません。うーん。
 たとえばTokyo Experimentのマチュさんは別に実名ではないが非常に有用なブログを書いていらっしゃる。この人は今後実名を公開してブログをやる必要はまったくありません。

 今日はこの辺までです。もうちょっと考えたいなー。

2012年5月21日月曜日

プチ隠居

レコードを買うのをやめようと思う。

今日も淵野辺のディスクユニオンが来月にも閉店するというので、野次馬というわけではないが自動車を走らせた。最近は携帯電話のナビ機能の質の良さにたまげているのだが、今回もわざと道を逸れながら新たな道を通った。

ちょっと見に行くつもりが結局プラスティックマンのLPやら同じく“Spastik”のシングルを買ってしまった。おかげで嫁の誕生日を祝うケーキが買えなくなるところだった。すまないと思う。

レコードを買うのをストップさせるのは以前にも試したことがあったがいずれも失敗している。が、最近は少し度を超してしまっている状態が続いているような気がする。ダイエットで言えばダイエットをやめることが出来なくてリバウンドを繰り返し、いまやベッドから起きることもままならない状態だと思う。

ダイエットというのがひとつヒントになった。岡田斗司夫の『いつデブ』を読んだからだと憶う。以前自分に課そうとしたのは絶食だ。これでは続くわけがない。自分の財布に見合った、そして満足のいくレコードショッピン’。これを目指す。急に断てないのだ、なんせ予約までしてしまっているものだから。

また、苦行と思わず楽しむために、私が密かに暖めている「プチ旅情」と組み合わせる。プチ旅情とは、いずれ詳細を書きたいが、要は「現実から非現実へ向かう陶酔を楽しむ」「行きて帰りし物語」である(今のところ)。日常を捉え直すことでそこに旅行先での一コマのような楽しみを抽出して悦に浸るという荘厳にしてみみっちい思考作業である(たぶん)。

今回採用するのは「期間限定ヴァーチャルご隠居」だ。ひと月くらいの間、私はレコードを買い漁る現場から足を洗う。仕事柄音楽情報だけは無料で手に入るのでそれを楽しむことにする。おそらく仕事が捗ってしまう。今でさえ聞くことが出来ないレコードを買い続けている合間に仕事用の音資料を聞いているのだ。 レコードを聴く時間がまるまる音資料を聞く時間になってしまう。
また音資料で得た知識から新たに買うレコードを定めたりするのだが、その知識を存分に貯め込むことが出来る。インプットの期間だ。そう考えるとインプットのように思われるレコード購入がわりとアウトプットな作業だったりしてくる(浪費によるストレス解消の役もになっていたのだ)。

このとき大事なのはご隠居マインドだ。どれどれ最近はどんな音楽がなっているのかいという余裕をかまして音を聞く。 毎日そうした音資料が無料で届けられるのだから、大した身分である。まるで若い衆が私に意見を求めてきているようではないか。これはご隠居マインドで聞くのに都合が良い。

まるっきりレコードを買わないかというとそのつもりはさらさらない。まずは予約商品の入荷。この時は「一万円で送料が無料」などとけちくさいことを考えて出費総額を増やすのはやめて、即発送を依頼することにする。それから友人にレコードでも買いに行かないかと誘われた時。職場の同僚から誘われたりするのだ。その時は嬉々としてレコード屋に行くつもりだ。

またこのタイミングでレコーディングダイエットを家計簿にも応用しておきたい。財布のひもをしぼって、自分の出費を見直そうと思う。

また隠居と言えば間もなく死ぬ身であるから、身辺整理もするだろう。買ったまま聴かれていないレコードがあっては死ぬに死ねないし、レコードの生き霊にとり憑かれてしまう。こちらのブログがにぎやかになれば良いが、うまく行くだろうか。

新譜チェックをすると絶対買ってしまうのでなるべく避けたいが、「フィジカルフォーマットを獲得することなく音楽生活を楽しめるか」というのはやや興味があるので控えめに行っていく。新譜買い生活をやめたとき、私は現在のシーンについていけるのか、それとも何段階か後退したフォロワーになるのかそれが楽しみでもある。
ここでもご隠居マインドを採用して「きゃつは今後芽が出てくるぞ」とほくそ笑みながらネットをチェックしたい。ご隠居だから手を下さない(=買わない)。

はてさて。ハーヴィのプレイを見た翌週とか、耐えられるだろうか。

2012年4月14日土曜日

立ち食い蕎麦のことを書く

私は立ち食い蕎麦が好きだ。好き故に「ネギ多め」などと余計な注文をする連中に腹が立つ。

 今まで何度か書いている気がするし、もしかしたらこのブログの最初の方にも書いているのではないだろうか。だが脳内で同じことをジャグリングし続けるのは頭の健康に良くないとも思うので、書こうと思うたびに思いとどまっているのかもしれない。

 思いとどまっているとしたら、それは私の友人が「ネギ多めで」と注文することがあるからだろう。私は友人にそれは野暮だよと伝える言葉を知らない。それを「野暮」だと感じるのは私の勝手だから、とも思っているのだろう。にもかかわらず私の背中で「ネギ多め」という言葉が聞こえるたびにうんざりするので今夜は書くことにした。

 私が理想とする立ち食い蕎麦屋での所要時間は7分だ。注文(食券の購入)から食器を片付けて外に出る、ここまでで7分。本来蕎麦はファストフードなのでそれが流儀である。まして立ち食いなのだからとっとと食べてとっとと出て行くのがよろしい。

 ネギ多めでなどという時間がもったいない。無駄だ。故に野暮だ。無駄なことが野暮だとは言わないが流儀に反する。そもそも7分なのだからそんなことを言っていては食べる時間が減る。それだと下品な食べ方にならざるを得ない。
 ネギ抜きも半野暮だ。だがネギが減る分食べる時間も短縮されるし、盛りつけもケレンミが無くなってすっきりするのでアリとする。

 またネギを増やすということ自体無駄で、しかも意味がないし何しろみみっちい。おそらくネギを足すくらいなら無料だとわかってやっているのだろう。だが食べるものを増やすならその分カネを払え。
ここで私は面白い考え方をしていることに気付く。ネギを増やすならばカネを払えと思う一方で、仮にネギ増量という食券が販売されていたら「そんなことでカネを取るな」と、おそらく思うだろう。私は双方向で「ネギ多め」を禁じている。
 ネギを増やすことに意味はない。風味が多少増すだろうが、 そんな野暮天どもに風味などわかろうはずもない。そもそも、ネギの多寡による風味の差がわかるような人は、立ち食い蕎麦屋のほぐしていないネギにまずは文句を言うはずだ。そして立ち食い蕎麦屋のネギの切り方に文句をつけるような人は立ち食い蕎麦屋に入る資格はない。素晴らしい蕎麦屋はいくらでもあるのでそちらで十分に蕎麦と薬味のマッチングを堪能するのが良かろう。

 そもそも私は何にそこまで腹を立てているのだろう。
 おそらく「知った風な口をきく」その生意気な態度に憤っている。だいたいネギ多めと頼む野暮天の何割がその店のネギの量を知っているだろう。知らないくせにちまちま注文をつけるその態度が気に食わない。
 これに関連して牛丼屋でのつゆだく、日本酒と白ワインの辛口、ラーメン屋での麺固めなどの注文も私を白けさせる。こういうことを知った風な顔をして注文する連中は味音痴だろうと私は決めつけている。ちなみに池袋のグランドキッチンみかどの牛丼なんて何も頼まずとも汁物のようなつゆの量だ。普段つゆだくを注文する連中を連れて行きたいくらいだが、ここでは余談。

 こうした一連の注文をするのであれば、比較対象を示さねばならない。自分の好きな日本酒の銘柄のひとつを挙げ、こういった味が好きなのだが今日はそれよりもすっきりした後口のものを飲みたいといえば、私も少しは腑に落ちるところがある。
 しかし辛口を頼む野暮天の味音痴たちは、自身の言う“辛口”が世間一般の“辛口”と同様であることを信じて疑わない。いや、そもそも味自体に興味がないのだ。辛口も麺かたこってりもネギ多めもつゆだくもただの記号としてのみ消費される。その注文で料理の味がどのように変化するかなどということに興味がない。ネギ多めと頼んだ時に、彼の脳ではネギの味の記憶のみが再現される。蕎麦をすすった時の麺とつゆとネギの風味の交差など死んでも思いが及ばないだろう。

 近所のラーメン屋では脂の量だとか麺の固さだとか、店員が私の好みを尋ねてくるが私はあなた方の作るラーメンのことをそこまで詳しく知りません。

 食べ物にこだわることそれ自体は素晴らしいことだが、場所を選んでほしい。立ち食い蕎麦屋では蕎麦かうどんかを選ぶ以外でしゃべらないでほしい。そういう場なのだ。

 突っ込みどころなどわんさかあるだろうが、一方的な主観を敢えて書いた。もう立ち食い蕎麦屋の客に関する文句は書きたくないからである。

2012年4月13日金曜日

instagramという病

instagram。
 あれだ。写真でお送りするtwitterだ。

 mixcloudを始めたので正方形の画像があると助かるわ、と思って始めたがアップロードすればフォロアーに公開されてしまうので、「ちょっと“イイ感じ”の画像」をアップロードすると大変恥ずかしい。
少々レトロな感じに画像を処理してくれるのがまた心憎い。ちょっとイイ感じなのだ。普段、こうしたちょっとイイ感じな代物は思考が麻痺するとして遠ざけているのだが、自分から率先して生み出してしまっている。
 他の方のアップロード画像を拝見したが、まーちょっとイイ感じだ。なんだか悔しい。

ドライブをした。

11日の水曜は自らが主催するDJパーティ【THE MILD】Vol.12だった。SHACKLETONの“DEATH IS NOT FINAL”の低音が思った以上にぶりんぶりんなのに驚いた。羽目を外した音だ。「KEEP IT CHEAP」の5番も大きな音で聞くと非常にかっこいい。ほんとに、DJしかいないのが残念でならない。

 ビデオ個室で一泊し、内田樹の『呪いの時代』を購入して帰宅した。

 今日は天気がよかったのでドライブに行きたくなった。最近、妻が職場を異動になり、職場の最寄りの駅から徒歩で通勤出来るようになった。それまでは職場近くの駐車場を借りて、そこから自動車で通勤していたのだ。
 クルマが通勤には不要になったため、現在は我が家の駐車場にとめてある。先週もクルマを借りて近所を走行した。

 首都圏に住むとクルマは基本的に必要なくなる。わんさか駅があるからだ。そのため、脳内の地図は各駅を中心に拡大していく。渋谷なら、渋谷駅を中心に私の中で「シブヤ」は描かれていく。

 クルマになるとその地図の変更を余儀なくされる。それまで空白だった駅から徒歩圏外の場所が頭の中に書き足されていく。今はそれが楽しい。相模原市は中心部を走る鉄道がなく、そこを国道が走っている。相模大野と橋本の間の空白が書き足されていく。

 頭の中に地図がないので当然迷子になる。しかし徒歩での迷子に比べて肉体的な疲労が 少ないので迷子もまた楽しい。今日は淵野辺のディスクユニオンから上溝方面を通って帰宅しようとしたが、見事に迷った。見慣れぬ景色や単線の線路、高台からの相模川の風景がとても興味深く楽しく迷うことが出来た。

 それから、圧倒的な移動距離。男の子は移動距離に憧れるのだ。移動距離の範囲が「オトコ」のスケールを決定づける。
 例えば、以前の職場で料理をしていた男は知り合いがアメリカに店を出すので来てくれないかと頼まれた。彼はアメリカに行っても取り敢えず仕事にありつけ、生活することが出来る。彼の移動範囲はアメリカを含むことになる。私はといえば、ここから静岡の実家、兄が住む浜松辺りが移動範囲の限界だろう。スケールの違いが良く分かる話だ。

 そういうわけでクルマは男の子に移動距離の物語を仮想体験させてくれる。 今日運転しながらセカイ系はクルマでの旅行と似ているかもしれない、と思ったりもしたが、その仮説は穴だらけなのでまたまとまったら書く。

2012年3月23日金曜日

情報は使うべきだと思う。

個人情報と言うものがあります。

 この情報だけは秘匿する事で機能している気がします。使わない事で機能すると言うべきでしょうか。

 が、そうとばかり言えなくなってきました。

Googleプライバシー ポリシー

で、その反応。

 これまでも個人情報を収集していた、もしくは可能だったはずです。facebookで個人情報を公開する事に慣れたということで改めて宣言した、というところでしょう。

 まとめサイトの発言を見るとそこまで拒絶している感じでもないですね。私もそう思います。

 これに関して岡田斗司夫が「Tシャツ化する内面」という文章を書いています。
http://blog.freeex.jp/archives/51309641.html

 個人情報を服飾で語るトリックスターぶり。上手いことを言おうとしてすべっている好例です。「顕在化する個人情報」で十分だと思いますが。
 それはさておき、 私はこの文章に概ね賛成します。特に興味深かったのは以下の部分です。

(以下引用)
真っ白だったTシャツは、すぐにプリントTシャツが大流行した。同様に、これからアウター化する個人情報も「デコ化」するに違いない。「見せられない個人情報」は「見せたいデコ化済みの公開プロフィール」へと変化するだろう。
  すると、次の「下着」はなんだろう?個人情報や顔写真が「上着」になる時代、思ったこと感じたことをすぐにツイートする僕たちが「他人に見せられない」と思うのは?  それはおそらく「欲望と嫌悪感」と「優越感と劣等感」だ。次世代に世界を席巻する情報プラットフォームは、僕たちの欲望や嫌悪感そのものを一瞬で世界中に公開するツールに違いない。
  嫉妬やコンプレックスを一瞬で共有できる仕組み。僕にもそれがどういうものか、明確にイメージはできない。
  でも、それが「次」だ。常に「下着は上着化する」のだから。
(引用ここまで)


 androidのアプリの、なんだったかは忘れましたが、レビュー欄がGoogleの個人情報収集への嫌悪、拒絶にあふれていました。それに関しては以下のコピペですね↓
 正直お前らレベルの情報なんか大して重視されないから今までどおり使えよwwww

 個人情報もまた情報なので使って初めて機能します。他の情報、たとえば株価の推移などは使わなければ意味をなさない事がイメージしやすいです。個人情報もまた同様で、持っているだけでは何の価値もないのです。

 でも、好きなものや行った場所、買ったものが見ず知らずの人に把握されているのがどこか気持ちが悪いという心情も理解できます。でもそれも2、3年のうちには気にならなくなっていると思います。それらを公開してしまったほうがラクで有益だから。
 いっぽうでインターネットを介さないコミュニケーションが復活するかも知れません。どう考えてもスカトロ趣味なんかは公開したくないし。いや、別の場所で公開して行くのか?

 コジンジョウホウホゴホウなんて中身を知らないで叫び回る時代は急速に終焉をむかえようとしている、それだけは確かです。

 うーん。でも価値観が急速に変わりますね。ちょっと前までインターネットはその匿名性に価値があると言われていたのに。その匿名性もプロバイダから見ればかわいらしい物語であったと言う事が急に前景化した感じです。

 あ、実体験をもとにすると、プライバシーをやたら云々する輩も500円あれば簡単に個人情報を開陳します。そんなもんです。

2011年10月26日水曜日

カネへの執着

給料日に前後して12インチを注文するのも日常になりつつあります。

カネは、それを何かに交換するときに初めて価値が生まれます。

とかいいながら小銭を貯め込もうとする浅ましさは相変わらず消えないのですが、本当はカネの持つ価値など脆弱なものです。

一方でカネが原因で人は死ぬのですからその威力はなかなかのものです。私とてカネがなければこの住居を追い出され、飢餓に苦しむ事でしょう。

以前に考えようとメモしていたサブマネーに関して。「評価」そのものを換金せずに兌換する、でいいのかな。他人がそれを価値あるものと認めたときに貨幣で採点せずに、それをすっ飛ばして価値をポイント化する。

うーん、あとで自分で読んでわからなくなりそうです。

ごくごく身近なところではお店のポイントカードがあります。あれには税金が一切かからりません。なにかを購入して得たポイントがそのままモノと交換できる。

おそらくサブマネーを考えて、それで以て国家財政を縮小させるということまで視野に入れた時、それはサブマネーという経済圏を構築する事を意味します。しかし価値をカネ以外の尺度で確立できるか、それに衣食住、特に食のインフラ整備をどうやってサブマネーで賄うかなどの問題点が残ります。

たとえば、食の調達をサブマネーで解決させる事は出来ないように思えます。そこは想像力が欠如しているからかもしれません。物々交換? それはただの退行でしょう。

社会の成熟度が高まるとサブマネーは効果を発揮するでしょう。今がその成熟度に達しているかはわかりませんが、生き死にに直接関与しないものをサブマネーで解決させるという方法が国家経済に脅威を与えるのは充分な余剰があってこそです。

ずいぶんざっくりとした話になりました。この話はいずれ深めていきたいです。

  カネは道具だと割り切りたいのです。だって、この紙切れが価値を担保する、その期限がいつ来るのか私たちには予想できないから。単純に100年後に今の1万円札が現在と同じような価値を持って流通するとはあまり思えません。そんなものの為に死んだりしたくないし、価値あるうちに交換してしまいたい。そう割り切りたいのです。

2011年10月24日月曜日

匿名性という武器

おそらくここ数年の事だと思うのですが、一年中マスクをしている人が増えました。で、うち何割かは花粉症や風邪以外で着用しているようです。

なにか客観的なデータが抽出できるような調査を行った訳ではないのですが、確実に増えている。今、病気ではないと書こうとしたのですが、病気かもしれない、おそらく内科や耳鼻科以外にかかるべき病気でしょう。

顔を、それなりに不自然な事なく隠す事が出来る。人によっては性格すら変わっているのではないかと思います。私は気が短いので、そのうち「とりあえずマスクを取れ」と言う日が来そうです。

顔が見えないので普段と違う事が言えるということは大いにあり得る事だと思います。顕著なのはインターネットでしょう。

『ブラックマシーンミュージック』という本でテクノやハウスを制作するにあたり、他の音楽とは異なりプレイヤビリティ、楽器が出来る/出来ないという身体的な条件から解放されたという文章があります。ドラムを叩く事が出来なくてもかなり正確にリズムを刻む事が出来る、といった話です。

これはそのままインターネットでの(言論)活動にもいえます。自らがその場に現れなくても表現できますので、いわゆるイケメン/不細工みたいな見た目から解放されます。それから声色や話し方(吃音なども含む)からも解放されます。そう考えると生身のコミュニケーションというのは実に「内容以外」の要素をたぶんに含んでいるのだなと、なぜかため息が出てしまいます。

あらゆる身体的条件から解放されたコミュニケーションが素晴らしいかというと、実際は全くそんな事はないということはこれまでの経験で明らかです。復讐みたいなものなのでしょうか、半ば怨嗟にとりつかれたような悪態を見る事が少なくありません。

人は道具と愛し合う事はありません。一方的に愛する事はできても、道具から愛を引き出す事はできません。せめて道具が機嫌を損ねないようにと祈る事しか出来ません。道具に生殖機能がないのも遠因かもしれませんが。

PCを使って愛を育む事はあり得るでしょう。デバイス上に現れた文字を見て想像をかき立てる事もあると思います。しかし貴方がマスクをし続けるかぎり彼(彼女)は貴方をコミュニケーションの相手とは捉えません。それは道具であって、機嫌を損ねないようなだめたり持ち上げることはあっても、それは利益を引っ張りだすためだけであって、貴方を慈しむからではありません。

話の落としどころを見つけられませんでした。インターネットに真実などはありませんし、wwやその他好意的なリアクションを見せる彼は、本当はいないかもしれない。これはただの道具であって、何も救ってはくれないよ、とかそう言う話だったかも知れません。

2011年10月12日水曜日

飽くまで空気を読む

 深夜にMくんがツイッター上にアップしてたのを偶然拝見しました。タイムライン上のリンクなんてほとんど見ませんが、たまにはいいことがあります。
と、書いていて思いましたがスパムのリンクだけ貼り付けたツイートとは、非常に性質が悪いものですね。

RUMI"A.K.Y"。
 空気読むという風潮がコミュニケーション不全、ひいてはいじめの温床ですらあるという鋭い指摘です。

 確かに空気を読むという思考作業を効率化していくと、何もしゃべらない、何もしないというのがもっとも効率的な運動になります。突き詰めていくと。
 何のアクションもしない事が「空気読んでない」というケースもありますが、そういったのっぴきならない事態になる前に空気を読んで「選択を迫られない」状態を維持すること、これも空気を読む事の役割でしょう。

 オカダトシオが「仲間は必要だが友達は要らない」と言う時、友達とは「延々と『空気を読む』という空虚な作業を繰り返す人間関係」の事を示しています。おそらく。
 対になる「仲間」はコミュニケーション、時に選択を迫るコミュニケーションを交わす関係だと言えるでしょう。
 
 RUMIさんの歌詞はウィットに富んだ言葉を並べながら、「空気を読むことの閉塞感」を暴露します。そして「敢えて/空気/読みません」というプロポーズ。

 何よりRUMIさんが素晴らしいのは「読めない」のではなく、「読まない」、つまり空気を読んだ上で、そこから逸脱するという点です。
 「空気を読む」を「状況判断」という意味で用いるならばラッパーにとって空気を読むのは必須の能力でしょう。空気を読めないのはプログレの人だけで充分です。パンクスも本来は空気を読めないといけません。
 それで、状況を把握した上で核心に迫ってしまう。ふざけて、煙に巻いて、すっと懐に入ってしまう。

 もう一点素晴らしいのは「空気を読む」事自体に対して回路を閉じていないことです。
空気を読めないと「空気を読まない事も出来ない」。当然と言えば当然なのですが。

 以前メモをしておいた事なのですが、「空気を読む」って完全に守備的な態度ですよね。絶対に必要でこれさえしておけば負ける事はない。けど勝てない。勝ち負けに言及してしまうとちょっと本質から逸れてしまうから言い換えよう。点が入らないからつまらない。守備から一人人員を割いて相手ゴールに近付かないと、リスクを冒さないと点が入らない!
 これは「自分はこんなに空気を読んでいるのに評価されない」と言外に怒っていた知人の観察によって得られた知見。やや余談だったかもしれません。

 が、しかし。私としてはなぁなぁのモラトリアムを維持したい気分も多分にございます。きついですもん、選択を迫られるの。ただ、保留している状態に自覚的か否か、その点は大きく異なりますから、意図して保留したいところです。

 戦略的にコミュニケーションをとるというのもずいぶんみみっちい話です。ただ私は「飽くまで空気を読む」ことを自覚的に選択しておきたいです。そしてどういった選択を保留しているのかに自覚的でいる事。それがもの言えぬ小人の戦闘的な態度ではないでしょうか。

イライラしてしまった日

ほとんど八つ当たりに近くて申し訳ない気分でいっぱいです。

本当はここから自分なりの分析を試みなければせっかくの罪悪感が無駄になってしまうのだけれど、根性が出ません。矮小な度量を呪う事しか出来ません。

怒りというのは、その殆どが私自身に向かっています。その感情を身近で感じ、思いつく荒れた口調の文言を自らの思考の中に、乱暴な荒れた態度を間近で見せられるのですから。

怒る時、それはそういった状況に自らを置いてしまった自身を責め立てているのです。ゆえに非常に疲れる。本当に怒りたくないです。

2011年10月11日火曜日

電車で席を譲るという事

直前の日記を書きながら普段思っている事を思い出しました。変な日本語だ。

直接的に関連はしないのですが、これが書く効用というものでしょう。

「電車の中で席を譲るのは良い事だろうか」

これにいたってはもはや屁理屈です。私が電車に乗っていて隣に座っていた人が席を譲ると非常に情けない気分になります。私はなんて心の狭い、手前勝手な人間なのだろう、自分より体力の劣るだろう人に席を譲ることもできない。譲った方はなんて人間がよく出来ているのだろう、と。

そこで卑屈な思考はさらに進みます。「そもそも私の隣の方が席さえ譲らなければ、私は自責の念に苛まれることはないのではないか」。ということは席を譲るという行為は本当に良い行為なのか。

席を譲って得をする(?)のは席を譲られた人と譲った人です。譲られた人は体力的に助かり、譲った人は、おそらく満足する事でしょう。私は非常に良い事をしたと満足します。そして損をするのはその両サイド、もしくはその席の一列、譲られた人の付近に座った人です。私のような人間だったら自責の念に駆られ、またそうでなくても周囲から「席を譲らない人」という評価を得る可能性があります。

そう考えると席を譲る場合と譲らない場合だと、席を譲った場合の方が損をする(可能性のある)人がはるかに多い事になります。
この考え方だと席を譲った場合の車内の空気の和みなども考慮に入れなければならないのですが。

と、特に疲れて座っている場合には「私は私が席を譲る事でうしろめたい思いをする人の事を考えると身動きを取る事が出来ない」と考えると自責の念が軽く、なりはしませんよ。そこで私が採用する方法は「どうぞ」などと明確に席を譲るのではなく、無言で席を立つ、です。そうすると譲られた側の心的負担(もうしわけなさ)も軽減できます。

久しぶりにくだらない事がかけました。

2011年10月7日金曜日

読書で汗かく。

 ズイッと夜更かす。内田樹『レヴィナスと愛の現象学』を読みながら風呂で汗をかきました。濃密なのですぐに汗をかけます。今のところ「そういうツール」 です。これは「読了」ラベルを付けて書く事が出来ないような気がします。この続編をもう既に購入してしまっています。『悲しき熱帯』も挫折しっぱなしです。

 今さら頭の悪い事を書いてしまいますが、哲学ってすげーよく考えるんだな、と感心しました。私の狭い思考量では貧相な言葉しか浮かびませんが、名状しがたい事の恐怖、というのが人間の根源にあるのかなと思います。「名状しがたい」なんてさらっと言う時はそれはおそらくこれから名状しうる目算が立つ時でしょう。「ぬえ」なんてのが良い例で、あれは「暗闇の恐怖」とかそもそも「恐怖そのもの」の付近に寄り添う「もわっとした」もの、その「もわっとしたもの」どうしの間の名状しがたい、それこそ名状しがたいものの名前でしょう。

 浦沢直樹の『MONSTER』に通底しているのもこれなのかなと勝手に思っています。名前が「ない」というのは考えているよりずっと「ない」。ふりかえれば名前のないものって少ないですよね。おそらく名前がないものを認識すらしないからでしょう。もちろん名前を知らないものはありますが、それを目にして「名前を知らない」と認識しても、それは名前がある事を予想できるから認識できます。「名前がない」ということは認識されない。正直どんな感じなのか、全くわからないけど、それは恐怖なのでしょう。

 今日はここまで。

2011年9月27日火曜日

引用。多数派であることのリスクについて

http://blog.tatsuru.com/2011/09/20_1001.php

私は個人的に橋下が嫌いです。私が大阪府に住んでいたなら意見も変わっていたかもしれません。「大阪都構想」 も首都機能の移転という点で重要なのでしょう。

私は橋下が知事に就任した直後くらいに、首長と話して泣いた時点で嫌いです。感情のコントロールも出来ない馬鹿が出てきた、こいつは絶対に暴走すると思いました。

人は本能的に泣いている人をなだめます。もしくは怒り狂っている場合に。こいつはとち狂って何をするかわからないから、とりあえずある程度譲ってこちらの話を聴けるくらいにまで落ち着いてもらおうとします。そういう交渉の仕方もあるのでしょうが、そんなやつが政治などできません。本当はびんたの一発でも食らわせれば良いのです。

橋下は絶対に失敗します。

現在、大阪市の平松市長とビーフな状態ですがこのやり取りも異常に言葉を幼くしてるあたり、気になります。これは市長もこれに合わせてしょうもない悪口を言ってるのでどっちもどっちです。

そういえば都知事に石原が再選したのも驚きましたが、大都市に住んでいらっしゃる人々は酔狂で、刺激を求めていらっしゃるのでしょう。

どっちにせよ、東京都民も大阪府民もセンスが悪いです。おまえら石原と橋下選んでるんだぜ。