2011年10月26日水曜日

カネへの執着

給料日に前後して12インチを注文するのも日常になりつつあります。

カネは、それを何かに交換するときに初めて価値が生まれます。

とかいいながら小銭を貯め込もうとする浅ましさは相変わらず消えないのですが、本当はカネの持つ価値など脆弱なものです。

一方でカネが原因で人は死ぬのですからその威力はなかなかのものです。私とてカネがなければこの住居を追い出され、飢餓に苦しむ事でしょう。

以前に考えようとメモしていたサブマネーに関して。「評価」そのものを換金せずに兌換する、でいいのかな。他人がそれを価値あるものと認めたときに貨幣で採点せずに、それをすっ飛ばして価値をポイント化する。

うーん、あとで自分で読んでわからなくなりそうです。

ごくごく身近なところではお店のポイントカードがあります。あれには税金が一切かからりません。なにかを購入して得たポイントがそのままモノと交換できる。

おそらくサブマネーを考えて、それで以て国家財政を縮小させるということまで視野に入れた時、それはサブマネーという経済圏を構築する事を意味します。しかし価値をカネ以外の尺度で確立できるか、それに衣食住、特に食のインフラ整備をどうやってサブマネーで賄うかなどの問題点が残ります。

たとえば、食の調達をサブマネーで解決させる事は出来ないように思えます。そこは想像力が欠如しているからかもしれません。物々交換? それはただの退行でしょう。

社会の成熟度が高まるとサブマネーは効果を発揮するでしょう。今がその成熟度に達しているかはわかりませんが、生き死にに直接関与しないものをサブマネーで解決させるという方法が国家経済に脅威を与えるのは充分な余剰があってこそです。

ずいぶんざっくりとした話になりました。この話はいずれ深めていきたいです。

  カネは道具だと割り切りたいのです。だって、この紙切れが価値を担保する、その期限がいつ来るのか私たちには予想できないから。単純に100年後に今の1万円札が現在と同じような価値を持って流通するとはあまり思えません。そんなものの為に死んだりしたくないし、価値あるうちに交換してしまいたい。そう割り切りたいのです。

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