2014年4月3日木曜日

いとうせいこう『想像ラジオ』

 これが出たのはちょうど1年前くらいですが、知ったのはつい最近のことです。「いとうせいこうは何故この本を書かなければならなかったか」みたいな感じの記事をどこかのサイトでちらりと見た気がするけど、いったいどこだったか思い出せません。帯に2014年本屋大賞ノミネートと書いてあるのでそれに関連したページで見たのかもしれません。

 (内容について多少触れます。ネタバレというほどではないと思います)

 赤いヤッケ一枚のまま高い杉の木の上に引っ掛かってしまった主人公DJアークが想像力を駆使してラジオ放送をするというお話です。その放送にチューンできたリスナーたちとともに送るラジオ番組。2011年3月11日に津波で亡くなった人たちの物語です。

 「亡くなった人はこの世にいない。すぐ忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
(『想像ラジオ』p.132)

 本当に人によって印象に残るシーンはそれぞれでしょうけど、僕が印象に残ったのはこの台詞でした。ほかにもボランティ同士の会話の、当事者でない自分たちが死者やその家族に思いを馳せるべきか否かというやりとりも印象に残りました。亡くなった人たちの思いを共有できる、なんてのは思い上がりだ、いや共有しようとする努力はきっと必要だ、というような。

 引用した台詞に話を戻します。未曾有の天災だったはずなのに移譲に急速に風化することへの違和感が表れているのではないでしょうか。
 僕たちは「あの事」を封印しようとしているのではないか。「震災を思い出す事」を明確に禁止した人・事はおそらくいません。しかし、日々膨大なデータが氾濫し、情報という濁流は震災の記憶を流し去ろうとします。暴力的な情報の洪水は否応なく津波の恐怖を想起させます。祈る事、悼む事、悲しむ事、思う事が「何となく後回しにされる」ことで禁止される。僕たちは震災の被害を本当に悲しんだのだろうか。

 原発を巡る報道でさえ震災を政治化する事で悲しみを誤摩化そうとしているような気さえしてきます(多少誇張ですな)。<3.11>が人生(観)を変えたという人は間接的な場合を含めればかなりの数にのぼるはずです。それなのにその発端・根本はおざなりになっているのではないか。

 この作品はストーリーの展開や構成、または手法、文体などに感じ入る類いの作品ではありません。大団円は用意されていません(ちゃんとエンディングはあるけど)。そういうわけでAmazonのレヴューで低い得点がついています。所謂小説を期待していると薄っぺらい内容のように感じるかもしれません。しかしこの作品は通常の小説が目指す完成度とは異なる場所を目指しているのだと思います。
 この作品は旅館で部下を捜す男や暗闇に取り残された女、スーパーの仕入れ担当の男の話をただ読むだけのものです。読んで、その人のことを思うだけ。被害にあった人たちが元から遺体であったわけはなく、それまで、その最中にあっても普通の人だったことを思う、それだけなのです。
 ストーリーの厚みを削り込んでまで読者への要求を下げたのは僕たちが「思うこと」がとても下手だからだと思います。

思いを馳せる。たぶん一日一分で良いはずです。いや月に一分程度でも良いのかもしれません。

 ひとつ気になった点は合間に入る曲紹介でした。どうということはないのですが、読んでいてその曲が頭の中で流れないと読んでいて少し躓く感じがするのではないでしょうか(YOUTUBEで聞きながら、はちょっと興が殺がれる)。BLOOD, SWEAT & TEARSとか、そこまで有名なのでしょうか、などと少し思ってしまいました。著者の照れ隠しでしょうか。違うか。


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