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2019年10月31日木曜日

為末 大 『生き抜くチカラ』


為末大さんは『諦める力』が非常に良くて。
勝てないとわかった時に違う道を用意する。どこで輝くか。そういったものを問うた本で「中二の教科書にしていい」と書きました。



今作はさらに年齢を下げて、小学生が自分で読む、ないし親が子に伝えられるような内容になっております。50のことばにまとめられています。

・勘や直感は意外と頼りになる。

・目標は「50%ぐらい達成できるかな」と思えるところにする。

など、大人にとっても膝を打つ内容になっております。目標は50%〜というのは高くても低すぎてもよくないよ、という意味ですね。

・「うらやましい」を声に出せば、こころが軽くなる。
なんてのはSNSに跋扈する被害者なりたがりの連中にもぜひ読んでいただきたいものです。

為末さんの本が面白いのは「なんとなーく言われてる常識って違うかもよ」というツッコミ精神と「こっちから考えるだけじゃなくて別の視点から考えてみない?」と読者の思考に揺さぶりをかけてくれるところです。
それらが自らの経験に基づいているので、説得力があります。"威圧的でない説得力"とでも言えばいいでしょうか、読んでいて風通しの良さを感じます。

とは言えこの本の中にも一読すると矛盾を感じるところもあります。"「自分が勝てる場所」を見きわめる""オンリーワンには落とし穴がある"とかね。それは各々が「こういうことかもしれない」と考える余地なんだと思います。

最後にお節介な引用をば笑
・「せっかくここまでやってきたんだから」には要注意。
 ということだから「引き時」ってのに気をつけましょうぜ。

2015年8月30日日曜日

白暮のクロニクル6巻



   いんやー、有料アプリ落とした途端に書かなくなるもんですねー。

    ゆうきまさみの『白暮のクロニクル』の第6巻が出ました。いよいよ本作のメインディッシュである"羊殺し"に関係しているのではないか、という事件が起こります。

    雪村のかつての恋人と関わりのあるオキナガが出てきたりもうひとりの主人公・伏木が自身と雪村の恋人との血縁を知ったりと重要な局面を迎えています。

    今回、ストーリーの進行役としてフリーライター(殺人研究家)の谷名橋が登場します。わりと唐突な登場であるのですがしれーっとそれなりに自然に作品に登場します。この辺は過去5巻が1巻1エピソードのペースでやってきたため、巻の冒頭にやってきても違和感がないんですね。それなりに重要な役割の人をポッと登場させる構成の妙を感じます。

    というわけで今回も読みながら左手で残りページを感じて「そろそろ犯人わかるなー」などと余裕をかましていたら見事に裏切られました。6巻はエピソードが終わりませんでした。

    6巻ではオキナガと恋愛することを登場人物に語らせています。これは恋愛にかぎらず人が遥かに寿命が長い者と付き合うとは、という話でもあります。「せつない」、「相容れない」と登場人物たちは語りますが今後この見解は変わっていくのでしょうか。

    またちょっと気になったセリフに以下がありました。
「ヒトは歴史上
運の入り込む余地を
減らし続けて
来たんだけど、
そのためにかえって
自分の運の悪さに
敏感になっちまったん
だと思うな、俺は」
これを雪村に言わせないあたりが上手いなと思います。

それとこのページ
いやこの、特に男性陣の姿勢のリアルさ。

地味ーな部分ですが作品にリアルな感触を与えていると思います。

2015年8月15日土曜日

平本アキラ『俺と悪魔のブルーズ』8年ぶりの新巻 X

 いや、全然気付きませんでした。何に。そりゃ『俺と悪魔のブルーズ』の最新巻の発売にですよ。





 ロバート・ジョンソン。27歳で死んだブルースマン。ええ、私"ブルーズ"って言えないもんですから。"ズ"って言ったら"ロバート・ジョンスン"て言わないといけなさそうじゃないですか。
 伝説のブルースシンガーの生涯を当代きっての画力を誇る平本アキラが描く、最高だぜと思っていたのですが、4巻を最後に音沙汰がなくなったため「ああ、打ち切られたな」と勝手に思っていました。まあ、音楽好き漫画ファンにとっては重要な作品でありますが、地味な題材と言われればそんな気もしますし。

 それが8年ぶりに新巻てなもんですから小躍りですよ。8年の間に4巻を買ったかどうかの記憶さえ曖昧になりいちかばちかで買いましたがその賭けには敗れました(ええ、ダブりました)。

 5巻は逃走中に逃げ込んだジュークジョイントでRJが演奏をします。はじめは演奏をオナニーとまで言われてしまうのですが、右手を制御するのではなく"解放"することによって凄まじい演奏が繰り広げられます。この描写が圧倒的。客がRJの悪魔の右手に狂わされていくさまが実に生々しく描かれています。濃厚で悪夢的ですらあります。
 僕は正直ここまでの体験をしたことがないな、と思いました。だからこのジュークジョイントで放たれた悪魔の音楽を僕は頭に描くことができませんでした。それは表現が悪いのではなくむしろ表現が過剰なまで狂おしいからです。この描写に音をつけられる人が羨ましいです。
 熱狂する観客がいる一方で戦慄を覚える数人がいます。この音に魅せられるのは危険だと。

 しかし狂宴は続きません。マクドナルド氏が放った猟犬に再びRJたちを襲います!そしてマクドナルド氏の狂気も次第に詳(つまび)らかになってくるのです...!!

 濃厚で悪夢的 。この漫画の魅力は影の濃さ、作品全体を覆う暗さ、気色悪さ、底なし沼のような不気味さにあります。まさにコミック・ノワール。その晴れない暗さは音楽の横にはびこる人種差別やリンチの恐怖、"自由の国"の閉鎖性を感じさせます。だからこそ、そこから一時的にでも逃げるために黒人が狂ったようにブルースで盛り上がることに強い説得力を与えています。

 この辺のイメージを助けてくれるのが「ウィスコンシン死の旅」かと。
アメリカ全体が「病気」にかかっていた時代
画像見れます。

 濃い陰を平本アキラは執拗に描きます。エロコメ(監獄学園)だけやないんやで。僕たちが「クラプトンもストーンズも影響を受けた伝説の人」などと語るとき、「ブルースは過酷な人生を歩む黒人のスピリットをほにゃららら」などと語るとき、どこか陽気です。なんだかんだ言っても音楽談義ですし。平本はこうした気楽さを少しずつ黒く塗りつぶしていっているかのようです。
 そしてなぜだかわからないけどその作業がとてもかっこいいです。

 絶対ハッピーエンドで終わらない感じ、いいですよね。

 次巻はいつになるのでしょう。非常に待ち遠しいです。

2015年1月11日日曜日

EURO BOYS 『LONG DAY'S FLIGHT TILL TOMORROW』(未レヴュー)、シグルイ文庫版7(完結)

 ずっと気になっていたEURO BOYSのアルバム。「こらぁアナログ探すどころか日本に入荷したかも怪しいでぇ」と諦めていました。今年に入って思い出してカタカタ検索していたらわりとすぐ出てきました
 そんなもんだ、というよりどうして今まで検索できなかったのか不思議です。


 彼らを知ったのはPRINS THOMASのミックス『LIVE AT ROBERT JOHNSON』でした。思い出したきっかけも久々にこれを聞いたから、というわけです。僕はこのミックスを爛熟期のディスコダブを象徴する名作ミックスだと思っています。

 装丁はずいぶんしょぼいしトラックリストもレーベル面にしかないのでカーステで聞いていて気になる曲があってもタイトルをチェックできないが、名作です
 リリース当時職場の友人と話していて「やっぱ8曲目でもってかれるよなー!」と話していましたが、その曲こそEURO BOYSの"GALLERY OSLO"でした(ミックスアルバムでのクレジットはKARE & THE CAVEMAN名義)。


 ある曲を聴いて、それが収録されているアルバムにまで期待が及ぶというのは、よくありそうで実はあまりありません(曲単位で購入できる現代では尚更です)。曲自体のパワーはもちろん、PRINS THOMASのブレンド技術も輝いております。

 これを書いている時点ではアルバムのイントロしか聴けていません。後日感想を書きます。

◆◆◆

 文庫版で買い続けていた『シグルイ』が第7巻を以って完結しました。圧倒的な筆致で狂おしく描かれた、まさに"残酷無残時代劇"。
 にしてもラストの後味の悪さがまだ残っています。フィンチャーの『セヴン』くらい。いや、後味が悪いというよりは"噛み切れない"感じです。

 この巻の前、藤木が失敗する仇討ちの場面は幻想も入り乱れる素晴らしいシーンでした。一回読んだだけでは何がどうなっているのかわからないくらい混沌としています。なんと言いますか、読み手に圧力がのしかかるような、本当に本を持つ手に力がギュゥゥゥッと入るような迫力がありました
 今巻では御前試合でついに宿敵を討ち果たすのですが、先の仇討ちの場面に比べて異常なまでにあっけない終わり方をします。宿敵との再戦が始まる前から破滅が始まっているかのようにポロポロと緊張感がこぼれ落ちていくかのように、さくさくと進行してしまいます。
 御前試合が終わった後に本当の試練が待っているのですが、その試練を経た後にはもう何も残っていません。
 そう、圧倒的な空虚が待っているのです(今、書きながらだんだん整理できてきた!)。最後の最後のページの、挿入された意味がよくわからない幸せそうなシーンの描写はもはや誰の夢想なのかも判然としません。

 これは、何だろう。もう一回通して読んでみたい。

X

2014年4月28日月曜日

結婚式の二次会、『町天』、常夜鍋など

結婚式の二次会行った。

26日(土)に以前在籍した職場の先輩の結婚式の二次会に行ってきました。久しぶりに会う面々もおり、懐かしさと楽しさに溢れておりました。その後池袋に移動して"俺たちの"大都会で6000円の豪遊としけこみました。同席した先輩、後輩には失礼な物言いもして少し悪かったなとは思いましたが、楽しかったです。

ブログ史上最高のアクセス

先日為末さんの著書の感想をここに書きました所、かなりのアクセスがありました。普段のPV数は「二桁行くかどうか」という非常に可愛らしいブログですがこの記事に関しては普段の20-30倍でした。

 さすが『諦める力』。そして普段書いているジャンルの音楽の日陰っぷり。これからも静々と書いていきます。

常夜鍋

いまだに読み方がわかりません。"じょうやなべ"?
具は豚バラのスライスとほうれん草。それをおろしポン酢で頂きます。この話をすると、必ず「あとキノコとか入れてもいいよね」と言われますが、この鍋に関してはそれは間違っています。豚肉とほうれん草のハーモニーのみを味わう料理です。
いかにもビールが合いそうですが、むしろ白飯との相性がとても良いです。

『町でうわさの天狗の子』読了

TVブロスでピックアップされて話題になった岩本ナオ『町でうわさの天狗の子』を読み終えました。ほんわかした絵柄とは裏腹に伏線が随所に張られているのでまとめ読みがよいようです。
天狗の子に生まれた女の子が主人公の、ゆるふわ青春ラブコメ。
終盤は画風とストーリーの噛み合なさが少しもどかしいです。おどろおどろしいはずの天狗道の描写さえ可愛らしくなってしまっています。しかし逆に作者が自分の畑ではない描写を敢えて選択したことに凄みというか強い意志を感じたりもします。

(以下ストーリーより妄想など。ドラッグで読んでください)
おっさんが書くと気持ち悪いですが、、、、
ラストのモミジがへこむシーンに関して、「モミジが好きだったのは瞬か?秋姫か?」という話題がネットにありました。「"紅葉は秋(=秋姫)に赤く染まる(赤くなる=惚れる)"→モミジが好きだったのは秋姫」とか、上手いこと言うなーと思いましたよ。アイススケートのシーンなどからそう推測するのは可能です。百合展開って、いいよな。
ぼくはモミジは二人のどちらかに恋愛感情を抱いていたわけではないと思います。それよりも三人の関係の変化が寂しかったのだと思います。自分(モミジ)と、"秋姫と瞬"の関係に階層が生まれ二人の関係に以前のように関与できなくなることが寂しいのではないかと思います。
で、二人のことを100%祝福できない自分が嫌で、それでへこんでいたんじゃないかな、などと。
「関係が変化することを恐れる」のはずっと主人公秋姫の役割でした。天狗にはなりたくないけど家族関係には満足している。天狗の父も嫌いではないし(幼少時は嫌だったみたいだけど)、瞬のことも眷属のことも、友人のことも好き。山を代表する「太郎坊」は煩わしくもあるけど、そこに収まっている状態が揺らぐことも望んではいない。
作中、モミジは感情がヴィヴィッドに表れることはほぼありません。秋姫は「天狗女子としてはリア充」のモミジへの劣等感さえ抱いています。だがそんなモミジにも秋姫と似たような感情の揺らぎがあることがラストに描かれていて、単純なハッピーエンド以上の余韻を残します。
やはりとてもいい作品ですね。

2014年4月25日金曜日

為末大『諦める力』を読んだ

一所懸命に書きましたが読み返すと自分のまとめる能力のなさがありありと伝わってきます。
あの、これ、ほんとはスゴくいい本なんです…。

 為末大さんの『諦める力』を読みました。多分良い本だろうと思っていましたが、やはりとても良い本でした。



 これはもう、中学2年の教科書にしていいと思います。進路を選ぶ前に読んで欲しいです。僕は自分の息子がそれくらいになったら読ませたいと思っています。「"諦める"なんてネガティヴなタイトルの本を父親から渡されるってどうよ!?」とも思いますが、説明したらわかるように育てたいです。

 無理だと思ったら早めに見切りをつけて別のことをした方が良い。というと不真面目に聞こえたり、それこそ努力が足りないと言われそうです。
 それに対し本書は長く現役生活を続けたものの大成せず、社会経験がないまま就職するにも歳を取ってしまって現在非常に苦しい生活を強いられている元アスリートに言及しています。応援してくれる人たちが選手生活後の世話をしてくれるわけではない、という部分はぞくっとしました。たしかにそらそうです。

 努力を続けることと決断を先延ばしにすることを混同してはいけません。特に「今までの積み重ねが…」、「せっかくここまでやったのに」などとつい思ってしまいますが、時間が経てば経つほど自分の選択肢は狭まっていくのです。

 「諦めるには早い」、「努力すればいつか夢は叶う」。美しい言葉は時に残酷です。
 そして人生は幾通りもの選択が可能だがその中の一つしか選ぶことは出来ない。

 もちろんこの選択は非常に難しいものです。「最終的に自分はどうありたいのか」という目標(戦略)が明確でないと、「目標を達成するためにどうするか」という戦術を選ぶことは出来ません。
 本書を読んで強く思ったのはここ、「明確な最終目標を持つことがとても大切だ」ということです。最終目標さえはっきりしていれば諦めて、別の方法をとることが出来ます。

 為末さんも陸上の花形である100mから(それに比べれば地味な)400mハードルへ転向することに抵抗があったそうです。
 しかし彼はそこで100でなければいけないのか、100で勝たなければ陸上をやる意味がないのか、そもそもなぜ陸上をやっているのかを問います。問い続けて根元まで問い直す。それはまさに哲学です。

 陸上をやるのは世界一になるためだ、なぜ一番かというと、それを実現させた日本人がいないからだ、なぜ実現させたいかというと、世の中にインパクトを与えたいからだ。

 では世間を驚かすためには100でなければいけないだろうか、種目にこだわるよりも勝つことを優先させるべきではないだろうか、だとしたら100よりは400の方が世界中になる可能性は高いのではないか。

 問い、考えたすえに、100の金メダルも400の金メダルも同等の価値があるとの結論にいたったといいます。100で予選落ちするより、400でメダルを争った方がインパクトは大きいはずだと。

 為末さんは「競技に勝ちたい」という目標がはっきりしていたから、勝つためにはどうすれば良いのかを考え、勝つために種目を転向することができました。花形である100にロマンを求めることも出来たはずです。ただ、そうしていたら僕は彼のことを知ることはなかっただろうし、この本も生まれていないでしょう。

 また、諦めるには限界を知ることが大切だとも述べています。厳しいトレーニングをしてそれでも勝ち目がないとわかった時に、諦めることが出来ると。
 これも簡単なようでいてとても難しいことだと思う。特に僕にはここが一番難しい気がします。僕自身、限界まで頑張った経験があるかと言われると自信がありません。仮に限界まで頑張っていたら引きずるだろうなー。

 自分の過去に当てはめてみると、高校で野球部を選んだことは少し無駄だった気がします。僕は甲子園に憧れていたはずですから、県のベスト8を目指しているような学校に進学した時点で諦めても良かったはずです。というより中学でレギュラーを取れなかった時点で甲子園に行くことは厳しいとわかっていましたが、そのことからは目を背けてしまった。

 いっぽう、同級生で高校では野球を選ばなかった友人がいます。彼は少年野球の時には同じ学年の選手が打てないほどの速球を投げていましたが肘を壊してしまいました。打撃も良かったから中学では野手として活躍しましたが、おそらく彼は今後自分が思い描いた野球人生を歩むのは難しいと判断したのでしょう。戦略を変更し、高校では野球を選びませんでした。夏の予選の応援にも来てくれたから、きっと割り切れたんだと思います。

 僕は自分より上手い彼が野球部に入らなかったことはもったいないことだと思ったし、野球部の顧問の先生にもその辺をちくちく言われたそうです。そうした周囲の目が諦めることを難しくすることがあります。

 さて、本の中でも自分の戦略を問い続けることが重要だと述べています。「自分が目指すものはこれでいいのか」、「当初の目標から外れていないか」、「戦略自体を変更した方がいいのか」。
 高校生の僕は自分の戦略を問うことをしませんでした。チームメイトとともに県の上位を目指したことは悪いことではないし、あの頃体を鍛えたからこそ今も何とか生きているとも思います。
 ですので野球部で活動したことに後悔はありませんが、「当初の目標は『甲子園に行く』じゃなかったか」、「このままでは甲子園に行くことはできないがどうするか」、と問わなかったことは後悔に値します。


 何かひとつ選択したら他のことを諦める必要があります。諦めるのには勇気がいります。その勇気は戦略から生まれます。戦略を実現させるための戦術がベターなのかを問うのはもちろん、戦略自体も問い続ける必要があるのです。

 また、本書の中で為末さんのお母さんが「陸上なんていつやめたっていい」と言ってくれたから続けられたと述べています。やめてもいいという選択肢があったからある意味気楽に陸上に取り組めたと。
 他人が期待していると思うとなかなか踏ん切りが付かないことってありますしね。

 ということで買って読んで大満足。
 そうして今、目標を決めなければと焦っている最中であります。これはたぶん焦ってもいいと思う。

2014年4月3日木曜日

いとうせいこう『想像ラジオ』

 これが出たのはちょうど1年前くらいですが、知ったのはつい最近のことです。「いとうせいこうは何故この本を書かなければならなかったか」みたいな感じの記事をどこかのサイトでちらりと見た気がするけど、いったいどこだったか思い出せません。帯に2014年本屋大賞ノミネートと書いてあるのでそれに関連したページで見たのかもしれません。

 (内容について多少触れます。ネタバレというほどではないと思います)

 赤いヤッケ一枚のまま高い杉の木の上に引っ掛かってしまった主人公DJアークが想像力を駆使してラジオ放送をするというお話です。その放送にチューンできたリスナーたちとともに送るラジオ番組。2011年3月11日に津波で亡くなった人たちの物語です。

 「亡くなった人はこの世にいない。すぐ忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
(『想像ラジオ』p.132)

 本当に人によって印象に残るシーンはそれぞれでしょうけど、僕が印象に残ったのはこの台詞でした。ほかにもボランティ同士の会話の、当事者でない自分たちが死者やその家族に思いを馳せるべきか否かというやりとりも印象に残りました。亡くなった人たちの思いを共有できる、なんてのは思い上がりだ、いや共有しようとする努力はきっと必要だ、というような。

 引用した台詞に話を戻します。未曾有の天災だったはずなのに移譲に急速に風化することへの違和感が表れているのではないでしょうか。
 僕たちは「あの事」を封印しようとしているのではないか。「震災を思い出す事」を明確に禁止した人・事はおそらくいません。しかし、日々膨大なデータが氾濫し、情報という濁流は震災の記憶を流し去ろうとします。暴力的な情報の洪水は否応なく津波の恐怖を想起させます。祈る事、悼む事、悲しむ事、思う事が「何となく後回しにされる」ことで禁止される。僕たちは震災の被害を本当に悲しんだのだろうか。

 原発を巡る報道でさえ震災を政治化する事で悲しみを誤摩化そうとしているような気さえしてきます(多少誇張ですな)。<3.11>が人生(観)を変えたという人は間接的な場合を含めればかなりの数にのぼるはずです。それなのにその発端・根本はおざなりになっているのではないか。

 この作品はストーリーの展開や構成、または手法、文体などに感じ入る類いの作品ではありません。大団円は用意されていません(ちゃんとエンディングはあるけど)。そういうわけでAmazonのレヴューで低い得点がついています。所謂小説を期待していると薄っぺらい内容のように感じるかもしれません。しかしこの作品は通常の小説が目指す完成度とは異なる場所を目指しているのだと思います。
 この作品は旅館で部下を捜す男や暗闇に取り残された女、スーパーの仕入れ担当の男の話をただ読むだけのものです。読んで、その人のことを思うだけ。被害にあった人たちが元から遺体であったわけはなく、それまで、その最中にあっても普通の人だったことを思う、それだけなのです。
 ストーリーの厚みを削り込んでまで読者への要求を下げたのは僕たちが「思うこと」がとても下手だからだと思います。

思いを馳せる。たぶん一日一分で良いはずです。いや月に一分程度でも良いのかもしれません。

 ひとつ気になった点は合間に入る曲紹介でした。どうということはないのですが、読んでいてその曲が頭の中で流れないと読んでいて少し躓く感じがするのではないでしょうか(YOUTUBEで聞きながら、はちょっと興が殺がれる)。BLOOD, SWEAT & TEARSとか、そこまで有名なのでしょうか、などと少し思ってしまいました。著者の照れ隠しでしょうか。違うか。