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2016年1月6日水曜日

新年の抱負を書くつもりが。

 新年も少し経過しました。僕は相変わらずです。

 今年はシンプルに一日一善を目標にします。

 これ、ほんとに出来たらステキよね。

 それから年明けに100分de名著のスピンオフみたいなのがやってて、わりといい話が多かったのでメモりました。読みづらいです。

 「資本主義はより速く、より遠く、より合理的に行動することで利潤を追求、極大化する。これからはその逆、よりゆっくりと、より近く、より寛容になるべき」
 「カネ以外の評価の軸を持つこと。"豊かさ"の多様性を獲得すること」
 「持続可能な社会=信用を築くこと」
 「循環しやすくする、ということ」
 「自分にして欲しくないことは自分もしてはならない」
 「"始末"とは節約のこと。はじめと終わりをきっちりする(始末)ことで循環しやすくなる」(これ、仕事の引き継ぎとかそうだよなーと妙に納得)

青春と読書 インタビュー『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫|| 集英社新書

・↑これ、出演してた人のインタビューでした。わかりやすいです。

以下雑文

 新年の抱負を考えているんですが、ぼやーっと考えていると昨年の興奮がまだ残っていて落ち着かない気分にもなります。

 安全保障法案とそれに反対するデモ。それは法案の内容よりも決まる過程の強引さに恐怖するものでした。

 終戦記念日の首相談話を聞く限りではきわめてまともな戦争観を持っていることがわかるだけに、法案採決の強行の異様さが際立ちます。


 それから地方議員のゲイフォビア発言が各地で発生したこと。

 僕も世の中が日毎に悪くなっているような気がしていますし、彼らもそれを感じているのだかもしれません。「悪くなっている」原因は僕も彼らもよく把握出来ていないようですが、彼らは同性愛を世の乱れの兆候だと感じているのではないか、そんな気がします。悪いのはユダヤ人だ!的な発想というか。

 僕も彼らも"何か悪いもの"が到来する予感がしている。そして彼らは全く的外れな結論を出そうとしている。そんなところではないででょうか。

 また二度にわたるフランスでのテロ、難民へのヘイトスピーチが日本から発せられたこと。これらは歴史をもう一度勉強し直す必要性を感じさせます。

 これらの事件に関連して、膨大な量の正義や義憤がSNSを埋め尽くしたこと。正直見ていてくたびれました。

よりゆっくり

より近く

より寛容に

2015年12月5日土曜日

2014年4月30日水曜日

ブログは質より量というは正しい。にもかかわらずそれには腹が立つ

僕が参加しているSNSの「市民」の方の投稿がgunosy朝刊にありました。あのグノシーですから、すごいことです。
・与沢翼氏の破産を知り「ほれ、見たことか」と思うのは案外正しい - 斜め45度からの理説
http://fukaihanashi.hatenablog.com/entry/2014/04/28/183326
・秒速で一億くらい稼ぐ与沢さんが破産して、その理由はね、という記事です。
予想している以上のことは書かれていなくてあんまり面白くないので読まなくて大丈夫です。
"以前から彼の破綻は予期できていた"という後出しじゃんけんな語り口がダサいです。「そんなこと今ならいくらでも言える」のです。
せめて「与沢氏は必ず復活する! なぜなら…」という切り口ならまだ良かったのでしょうけど、「四月下旬に雨が降ることは過去のデータから予期していた」と今日書いているようなもので、「どこにも転がっていない理論や方法論を語ります」はさすがにないだろと突っ込まれても仕方がありません。
ついたコメントが辛口なのはここに由来しています。
知り合いではないけど稼ぎはしっかりしていて頭がいいことを知っているので、投稿者がなぜ凡庸なことを後出しというちょうど今いちばんダサいスタイルで書いたのかが理解できませんでした。
(文章はしっかりしていると思うし、見やすいブログになっていると思うから余計に気になるのです。)
あ、与沢翼がホットな単語だからか。なるへそ。
考察のクオリティよりもこのタイミングできっちり記事をリリースすることを重要だと判断したということです。
この考え方は人のことをナメていますが、いっぽうで合理的でもあります。顔も知らない人間の賞賛、非難、同意異議はシェア数に換算したら同価値だという怜悧な判断。やっぱ頭いいわこの人。
ブログは「見られなければないのと同じ」で、それを実践できるはったりと厚顔無恥には憧れますが、それでも僕は吐き出す言葉に誠実であろうと固く思いました。
正直こんなんが広く読まれることが羨ましかったのですが、あれこれ書いたら気が済みました。
僕のブログ、流行んなくていいや。

2014年4月7日月曜日

秀逸なブログでした。

この歳になって気づいたことですけれども、「まとまった時間」はもう永遠にやってこないのです
(KogoLab Research & Review)

これは身に沁みました。もう要約する必要がないほどすべてを語っているタイトルです。
・原稿や論文を書くためのまとまった時間は皆、日常の些事に削り取られていく。だから「まとまった時間」を分割して日々のルーティンの隙間に入れていくしかない。

しかし、ついまとまった時間を夢見てやろうと思ったことを後回しにしがちです。むしろやりたいことのほうが後回しになっている。「まとまった時間が出来たら久しぶりにミックスでも作ろう」と何ヶ月も思ってます。

2014年4月3日木曜日

いとうせいこう『想像ラジオ』

 これが出たのはちょうど1年前くらいですが、知ったのはつい最近のことです。「いとうせいこうは何故この本を書かなければならなかったか」みたいな感じの記事をどこかのサイトでちらりと見た気がするけど、いったいどこだったか思い出せません。帯に2014年本屋大賞ノミネートと書いてあるのでそれに関連したページで見たのかもしれません。

 (内容について多少触れます。ネタバレというほどではないと思います)

 赤いヤッケ一枚のまま高い杉の木の上に引っ掛かってしまった主人公DJアークが想像力を駆使してラジオ放送をするというお話です。その放送にチューンできたリスナーたちとともに送るラジオ番組。2011年3月11日に津波で亡くなった人たちの物語です。

 「亡くなった人はこの世にいない。すぐ忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
(『想像ラジオ』p.132)

 本当に人によって印象に残るシーンはそれぞれでしょうけど、僕が印象に残ったのはこの台詞でした。ほかにもボランティ同士の会話の、当事者でない自分たちが死者やその家族に思いを馳せるべきか否かというやりとりも印象に残りました。亡くなった人たちの思いを共有できる、なんてのは思い上がりだ、いや共有しようとする努力はきっと必要だ、というような。

 引用した台詞に話を戻します。未曾有の天災だったはずなのに移譲に急速に風化することへの違和感が表れているのではないでしょうか。
 僕たちは「あの事」を封印しようとしているのではないか。「震災を思い出す事」を明確に禁止した人・事はおそらくいません。しかし、日々膨大なデータが氾濫し、情報という濁流は震災の記憶を流し去ろうとします。暴力的な情報の洪水は否応なく津波の恐怖を想起させます。祈る事、悼む事、悲しむ事、思う事が「何となく後回しにされる」ことで禁止される。僕たちは震災の被害を本当に悲しんだのだろうか。

 原発を巡る報道でさえ震災を政治化する事で悲しみを誤摩化そうとしているような気さえしてきます(多少誇張ですな)。<3.11>が人生(観)を変えたという人は間接的な場合を含めればかなりの数にのぼるはずです。それなのにその発端・根本はおざなりになっているのではないか。

 この作品はストーリーの展開や構成、または手法、文体などに感じ入る類いの作品ではありません。大団円は用意されていません(ちゃんとエンディングはあるけど)。そういうわけでAmazonのレヴューで低い得点がついています。所謂小説を期待していると薄っぺらい内容のように感じるかもしれません。しかしこの作品は通常の小説が目指す完成度とは異なる場所を目指しているのだと思います。
 この作品は旅館で部下を捜す男や暗闇に取り残された女、スーパーの仕入れ担当の男の話をただ読むだけのものです。読んで、その人のことを思うだけ。被害にあった人たちが元から遺体であったわけはなく、それまで、その最中にあっても普通の人だったことを思う、それだけなのです。
 ストーリーの厚みを削り込んでまで読者への要求を下げたのは僕たちが「思うこと」がとても下手だからだと思います。

思いを馳せる。たぶん一日一分で良いはずです。いや月に一分程度でも良いのかもしれません。

 ひとつ気になった点は合間に入る曲紹介でした。どうということはないのですが、読んでいてその曲が頭の中で流れないと読んでいて少し躓く感じがするのではないでしょうか(YOUTUBEで聞きながら、はちょっと興が殺がれる)。BLOOD, SWEAT & TEARSとか、そこまで有名なのでしょうか、などと少し思ってしまいました。著者の照れ隠しでしょうか。違うか。


2014年3月30日日曜日

マイルドヤンキー論、個人的には一件落着。

昨今、ブログ界隈のみを賑わせている(=実際には賑わっていないんじゃねえの)ヤンキー論について。
実はこれらの記事の類いは斜め読みなので詳細はわかっていないのですが、ここで使われている"ヤンキー"なる語は純粋なマーケティング用語であって、それがやや逸脱し始めたぞという話です。それで田舎出身、かつ郊外在住の自分としてはそのマイルドヤンキーの拡大解釈に違和感を感じていました。

(シロクマの屑籠)

「マイルドヤンキーとはわざわざ東京に出るまでもなく十分楽しくやっていける“地元のリア充”が一緒くたになった語彙と考えて差し支え無い」
「(マイルドヤンキー層は)日常的なコミュニケーションシーンで学問知をひけらかすような粗忽さとも縁が無い。だから、地方のショッピングモールを物見遊山で訪れる人達からみれば、いかにもヤンキー的な人物とうつるかもしれない。だが、必要性を感じさえすれば、彼らとて学問的な知を学ぶことを厭わない。」
「ソフトヤンキー・マイルドヤンキー・ヤンキー的なもの……といった語彙は的を射たところがあると思うけれど、【ヤンキー文化圏由来のコンテンツや服装を身につけている=貧困で反知性主義】のごとき短絡は、避けなければならないと思う」


マイルドヤンキーが"地元のリア充"であるという部分でその通り!と、膝を叩きました。また僕が感じていた違和感はまさしく"「ヤンキーはかわいそうな貧民(そして俺達はそうではない)「ヤンキーは反知性(そして俺達はそうではない)」的な受け取り方"であったわけです。さらに言えば"ファスト風土のマーケティング論"という言葉も的を得ています。ていうか、この言葉でてこなかった自分が情けないです。

また上記リンクに引用されている「マイルドヤンキー」という言葉があぶり出した日本の階層http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20140326/261791/もわりと正鵠をえているとおもいます。
「都心であれば、家庭環境に恵まれている子どもの多くは小学校からお金のかかる私立学校に通いますので、そもそも、「マイルドヤンキー」の存在そのものが認識されることがない場合もありえるでしょう」
「「マイルドヤンキーが増えている」とか「これからはこの人達の消費動向を注目するべきだ」とかを最近メディアで話されている著名人の経歴をウィキペディアで調べてみました。すると、やっぱりといいますか、地元でも有数の進学校に高校時代から通っている方がほとんどでした」
→それどころかこれらを引用・孫引きしているブログの筆者のいくらかは絶対ヤンキーにこずかれてたんだろうという気すらします。呪詛を感じる。ちなみに、筆者の慎さんもいい学歴だ(余談)。
現在のマイルドヤンキーの語の流行は階層の可視化ではないかという慎さんのご意見は大切だと思います。マイルドヤンキー層が階級として発見されたということです。もしかすると僕にとっても他人事ではないかもしれません。

ということで注目は止めず、しかし書くのは止めようと思います。若干飽きてるし。今後はマイルドヤンキー説に対抗する郊外の自称知的階級のことなどが取沙汰されたらまた書いてみます。てなんのこっちゃ。




2014年3月22日土曜日

ヤンキー不在のヤンキー論

●マイルドヤンキー賞賛とその先にあるもの、、、
http://blogos.com/article/82662/


 近年何かと話題のヤンキー論。ここでいうヤンキーは実際の不良とは異なります。僕もヤンキー関連の記事は数回しか読んだことがないのですが、生まれ育った郊外都市から離れず生活する低学歴・低所得層のことだそうです。

 リンク先のマトリクス。
http://blogs.yahoo.co.jp/sfscottiedog/GALLERY/show_image.html?id=64386455&no=0

 正直笑いました。こんな分類の仕方があるなんて。いやぁ、これでいったら僕なんか紛うことなきエリートです。ヤンキー憎悪よな。

 つい先日、友人の父上が亡くなられたために久しぶりに郷里へ赴きました。ここでいうヤンキーにあたる人が僕の友人にもいます。様子を見るとそれほど悪くないように見えます。

 だいぶ前に「東京、人多すぎる」というブログをmixiに書いたことがあります。そのとき友人から「じゃあまずお前が静岡に帰らなきゃ」というコメントを頂きました。仰る通りで、でも未だにそれは実現していません。故にこういう記事に反応してしまうのかもしれません。どこか後ろめたい気分がします。

 この手の記事に当の"ヤンキー"は出てきません。ITへの意識が低いということなのでまあ当然なのですが。上記の記事が様々な記事を拾ってきていることから窺うことができますが、書いているのは"(自称)非ヤンキー"で、しかも実際にヤンキーを見た書いた記事はほぼない。もはやヤンキーは都市伝説。
 「で、どうしたらいい?」という意見、具申も出てこない。内田先生も実際に何かするという方ではないのでヤンキー啓蒙などは死んでもやらないでしょう。
 おそらく彼らには搾取する側にいるという自覚があるからでしょう。

 近郊に住む一部の意識の高い者と、海外で働いている者や大学教授、まーけてぃんぐ部門の人間などインターネットに棲息する亡霊たちがヤンキーという亡霊に群がっている。そんな風に見えます。

 また僕の友人などと語ると最終的には田舎へ帰りたいという人間が何人かいます。けどそれじゃダメなんですよね。いくら大金を持っていても、じじいが行ったところで盛り上がるはずがない。じじいはどうせAmazonでお買い物をするのです。若い人がそこで生活をしてはじめてその都市が息吹を取り戻します。じじいはむしろ交通網の発達した首都圏にいた方がいいはずです。

 僕はもうちょっとひどいです。地方がもっと死に絶えて国が補助金などを用意した上で地方都市への入植を行う。土地も家賃も二束三文、しかも補助金で賄うから出費なし。そうなったら新時代の屯田兵として地方に赴く所存です。

2012年8月22日水曜日

夜を手放さない

 少し間が空いてしまいました。
 先週は帰宅して大酒を飲む、という夜を繰り返してしまいました。頼まれたフライヤーの製作も滞っているというのに、いやまったく酒の飲みすぎは百害あって一利なしにございます。
 SHACKLETONの、少し前に出たアルバム等を愛聴しておりました。アナログで買い揃えるのが大変そうなのでCDで購入しました。やはり素晴らしい音です。

 別のところでクラブと風営法について書く機会がありました。
 そこで頂いたコメントの中から、夜が持つ祝祭感や闇が人と人を親密にさせる効果、夜と昼の世界は分かれているなど、貴重な考え方を得ることができました。
 夜の魅力というのは確かにあって、それはもっと重視するべきだし、簡単に手放すべきではない。

  アメリカで、酒類の販売が禁止になる午前2時にクラブが閉まるのを受けて、日本でもピークタイムを早めれば現行の風営法下でも営業が可能だというのはまったく早計。

 法的な解決策などはまったく思い付きませんでしたが、「夜には根元的な魅力がある」ということを改めて思いました。

 通常、夜という時間帯は帰途に充て、風呂に入りビールを飲んで、ブログを書いてしまう。日中は既に始終ハレ化してしまっていますから、ケ(日常)に戻るのが夜だと思います。そうしたケから逸脱していく。暗闇の中に灯りを探す。思い切ってドアを開けるとそこにはハレ、祝祭がある。それはやはり夜である必要がないだろうか。

 夜の闇が他者の視線を遮るという考え方はできるでしょうか。他人の目、ここでは「法律/日常」と言い換えてもよいです、が届かない先へ赴くこと。こういうのも変身願望の一種なのかもしれません。

 現実的な落としどころ、ということでアフタヌーンパーティという方法は有効なのかもしれません。ただ、抗えない魅惑の闇を簡単に手放してはいけない。これはいったん手放したら取り戻すことはおそらく出来なくなってしまう。取り戻す行為そのものが違法になってしまうと、非常に動きづらくなってしまう。私たちはそのグレーな状態をできるだけ「なあなあ」にして延命させなければならない、そう思います。

2012年8月12日日曜日

これだな。

すごいです。こういった人生訓の中でぶっちぎりの説得力。水木しげる、グレイト。特に努力は人を裏切るなんて毎回裏切られているのに絶対言えません。貧乏臭いのです。

 
「水木先生の考える幸福の7カ条」

第一条 成功や栄誉や勝負けを目的に、ことを行ってはいけない。


第二条 しないではいられないことをし続けなさい。

第三条 他人との比較ではない、あくまでも自分の楽しさを追求すべし。

第四条 好きの力を信じる。

第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第六条 怠け者になりなさい。

第七条 目に見えない世界を信じる