2020年6月5日金曜日

他者に祈る、ヒマを過ごす

他者のために祈るということ。


ふと思いついてしまった。神社に詣でた時。賽銭をチャリーンとやって、パンパンと手を打ったあとの話よ。あそこで何を祈るのかと、そういう話です。

で、あの場面で自分以外の誰かの幸福を祈るってのが良いんじゃないかと。

なんだろ。今までも自分の幸福を祈るってのに違和感を感じている。だから、僕の若い頃のブログには「願ってもいやらしくない程度の幸福を」という書き方をしていた。何かの言い回しを引用しているのか(ブコウスキとかかな)、それとも少しアレンジしているのか。ちょっと思い出せないが、とにかくすんなりと自分の幸福を祈ることができない。

そこで他人の幸福を祈るわけなんですよ。まあ、やったことはないんだけど。思いついてからまだ神社行ってないし。
ところで誰かにとって"どういうことが幸福"なのか…例えば誰かが探しているレコードがあれば「それが見つかりますように」と祈る。でレコ屋でそれを見つけたら押さえておく(笑)。
誰かの幸福を把握しておくって、なんか素敵な予感がする。上手く言えないんだけど。

僕なんかは家族がいるんで割と容易いんだけど。でも子供が何をして幸福なのか、本当に理解しているかはわからない。カミさんもそう。
いやーやばいよ、カミさんにしてみれば「僕と別れる」ことが幸福なのかもしれないし(笑)

まあ、そういうこともありうるよね。「他人が私の不幸を祈っているのなら、私は私の不幸を祈るべきか」、いや、祈らなくていい。そこは避けて別の人の幸福を祈ればいい。

他人の幸福を祈れば行動もそれに合わせる気がする。レコード見つければ押さえとく感覚。これは自分の幸福のために自分で行動を起こすより、なんだか簡単な気がする。これが色んな人に広がっていけば、なんだかステキな世の中になる気がしてならない。

友人の幸福ってなんだろ。そういうことに想いを馳せることが大切な気がしてならない。

なんて書いていたらブレイディ・みかこがラジオで「利他的であることは利己的につながっている」と言ってて、ちょっとびっくり(今radiko聴きながら書いてた)。他者への想像力。おお。そういうことか。

「ヒマの過ごし方」。

「他者を祈る」ことについて何一つ述べていないんだけど、カーステからこれが流れ来て「ボーズさんたらいいこと言うなあ」と思った。で、そこから思考の数珠つなぎにで「他者の幸せを祈るってことか」と思い至った。

スチャダラパー ヒマの過ごし方(ググった結果のリンク.歌詞チェックできます)


ヒマであると言うこと。それこそ他者を想像する時間、つうのかな。これが93年。ということは27年、ヒマな時間はどんどん削られてきた。むちゃくちゃに働いてきて、給料はどんどん減って、今や●●警察ばかりが跋扈していて、正直めちゃくちゃ生きにくいもんね。

コロナ禍でほんと考え方変わりました。♪Easy〜

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