2020年6月8日月曜日

最近の雑記。


先日、暴動するガッツに憧れる、と書いた。その裏には「なぜ日本では暴動にならないのか」という思いがある。


これの回答のひとつとして"過去の反省"があることを知った。あさま山荘事件などのテロ事件に対する反省だ。

1972年テルアビブの空港乱射事件など、日本はむしろ政治的熱気が暴発していた。それへの嫌悪と反省が政治を語ることを忌避させている。


これは「なるほどそういうことだったか」と納得した。僕も"総括"なんて聞くと勇ましさよりも陰湿さが勝る。


上に「なぜ日本では暴動にならないのか」と書いたが、読んでわかる通り僕が想像している暴動に僕の姿はない。あくまで他人事だ。SEALDsみたいな政治的熱気を抱いた市民が暴れるだろう、俺はやんないけど、という。


政治を話すことをタブーとした成果がこれだ。おそらく、日本の数多くの人が僕と似た思考をしていると思う。誰にとっても他人事なのでどこからもスタートしない。


話は変わって、covid-19パニック下でのネット情報のこと。いやこれが、SNSでは良い悪いの判断が全くつかなかった。Twitterで正しいことが分かれば苦労しないのだが、例えば自粛すべきか否かとか、PCR検査は検査対象を拡大すべきか現状維持すべきかとか、ユースビオは怪しいのかどうかとか、誰の言うことが正しいのかが全然分からないのだ。


これ、誰が間違ってるとかではないと思う。それぞれ利害の代表みたいのがあって、焦点の当て方、アプローチの仕方が違うのだ。それにプラスして保守orリベラル(この対比も怪しい)、政権支持不支持などがプラスされるのでより正解不正解が見えづらい。


今更な結論だがSNSの各人の発言だけで物事の正しさを判断するのは不可能だ。


例えば夏の都知事選に立候補した宇都宮けんじ氏が公共工事の見直しを公約に掲げている。これに対して道路の整備を凍結したら都心部の道路状況が悪化してしまう、宇都宮氏の主張は問題があるという意見が出る。


そこまではいい。


そこから「小池氏に踏ん張ってもらわないと」という意見が湧いてくると急に雲行きが怪しくなる。

えー、小池さん緊急事態寸前までオリンピックやろうとしてなかった!?そんな人に安全な政治は無理だよ!と僕なんかは思ってしまう。

そうすると「公共工事見直しは問題がある」とする指摘すら怪しく思えてきてしまう。

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