カナダではケベック州で2015年で安楽死が合法化され、言い方は変だが「より死にやすい」方向へ向かっている。なんとカナダ全体の死因の3%は「医療的介助による死」という(2021年のデータ)。
日本の年間死者数で3%というと4.8万人くらいにあたる。普段馴染みのない統計だからピンときませんね。
で、医療的介助を伴った死の適用範囲を広げようとする動きが広がっている。障害を持つ新生児、認知症の患者だったり。認知症の場合は事前の指示が必要らしい。障害を持つ新生児に適用すると言うのは「違う」と思うし、ぶっちゃけ論理的な理由はいらないと思うが一方でとても切羽詰まった"現実"の存在も思い知らされる。
そして状況によっては福祉や保護を受けるよりも安楽死の許可を得る方が容易なケースも出てきてるようで、ここまで行くと「ちょい待ち」とも言いたくなる。
"2019年4月にカナダを公式訪問して聞き取り調査等を行った国連の障害者の人権に関する特別報告者は、「施設や病院にいる障害者にMAID(Medical Assistance in Dying『死にゆく際の医療的介助』)への圧力がかかっている、また医師らが障害者の安楽死を公式に報告していないとの気がかりな報告が届いている」と報告書に書いた。"
以前に安楽死に肯定的な意見を書いた。書いたはず。私は現況がもうちょっと進んだ状態を想定した。自分のタイミングでいつでも安楽死を選択できたとしたら、それってけっこう「生きる活力」になるんじゃないかなー、と思ったのだ。実際には「最後の、究極のケア」の域を出ることはしばらくはないんでしょうけど。
しかしこの記事は私の楽観的な安楽死論とは別の未来を提示している。適切な保護を受けられないなら死を選んだ方が手っ取り早いのだ。さらにこれは「なんで死なないの?」という圧力にもなりうる。私なんて呑気にこんなブログを書いているが、「なんで死なないの」と言われる順番が結構早いかもしれない。
だが、にもかかわらず私は安楽死の普及に期待している。消極的ではあるけれども。やはり死ねる安心感というは、きっとあるんだと思っている。いっぽうで苛烈な圧力にもなりうることも本記事でわかった。
難しいな。さっきから書いては消してを繰り返している。死ぬ権利を認めるのであれば、それと同等の生きる権利も名実共に認める必要がある。書き方を変えてみる。生きる権利が当然であることは死ぬ権利の否定とイコールではない。
安楽死は究極の個人主義に立脚する。。。ちがうかな?究極の個人主義とは、他人の意志の一切の介在を認めないという意味で用いた。自分の子供が死ぬのを選んだ時に止めることができないのか?いやーやっぱ難しい。
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