2014年3月31日月曜日

捕鯨反対などの話

日本の「調査捕鯨」判決へ 国際司法裁判所が判断(03/31 01:06)
 1982年から続けられてきた調査捕鯨に対してオーストラリアが訴えた裁判の判決が今日下される予定なのだそうです。

 いわく、調査捕鯨と言いながらその捕獲頭数は多く、しかも鯨肉を販売しているのは商業捕鯨と何ら変わりがないとのことで、それに対して日本は捕獲数は妥当だし、鯨肉販売も条約によって認められているから違法性はないという主張です。

 日本の主張が退けられた場合はこれまでのような調査捕鯨が、場合によっては全く、出来なくなる可能性があります。

 僕個人のレベルでは捕鯨が禁止されても全く問題がありません。今、ぱっと思いついたかぎりでは鯨料理を主としているお店なんかは大変だろうな、という程度です。

 捕鯨・食鯨という文化が喪失されるという理由で捕鯨に賛成するのも今ひとつ乗り気ではありません。反捕鯨団体、ていうかシーシェパードが用いる船の形を含めてバカ丸出しなため、わりと容易に捕鯨文化保護に賛成できてしまう気がします。なんとなく、捕鯨反対=シーシェパード=バカで、それと一緒にされたくないというか。

 文化が喪失しても良いのか、に対する反論として、極端な例を代入してみます(これもバカっぽいかな…)。今、わざわざ鴇(トキ)を食べようなんて思いません。ジャイアントパンダも食べない。じゃあ鯨も食べなくてもいいのではないでしょうか。文化の喪失を惜しむというのであれば、例えば"首狩り族"のその文化は現在も存続させるべきでしょうか。

 一方で文化が喪失されることの重大さも認識すべきでしょう。失われた文化は、二度と戻りません。たぶん今僕が思っているよりもずっと、このことは深刻です。今後、逆に食べる物が鯨くらいしかない、という状況になっても食鯨文化が喪失されていたら、ろくに消費できない可能性があります。ベーコンにすることを思いつかなかったり、大和煮することに気付かなかったり。文化が喪失するとはそういうことなのだと思います。

 うん、書いていけばある程度考えがまとまってくるかなと思ったけど全くまとまってきません。書きながら「捕鯨を嫌がる人が一定数いるのだから、わざわざやんなくてもいいんじゃない?」と思ってもいるのですが、これもまた。犬を飼っている人のいくらかは犬を食べることに(生理的)嫌悪を覚えるでしょう。じゃあ、鶏を飼っている人を慮ってケンタッキーがフライドチキンを自粛するか?

 なんだかいろんな意味でシーシェパードがバカっぽいのが諸悪の根源な気がしてきました。捕鯨・食鯨の是非を語るとシーシェパ並のバカまでレベルを落とさないと行けないのでは、という懸念がこの事柄への考えを停止させている気がします。
 お前らさえちゃんとしてれば自由に捕鯨に反対できるのによぉ。

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