2019年4月28日日曜日

radio the mild20190428

NHKスペシャルでネットのことやってたんで、また以前書いたことを蒸し返しつつ。

ネットって、"繋がってる"ことに注目が集まるけど、実は「繋がってなくてもいいよ」ってとこが実は重要なんだと思います。

ネットワーク上で"繋がって"いれば現実社会で"繋がってなくても"構わないという幻想を植え付けたというか。

これによってトポスが完全に失われたと思います。

トポスは最近読んでた中島岳志さんの著書で何度も出る言葉なんですけど。「自分が生きていくための役割があると実感できる場所」とあります。自分が「ここで生きていることに意味がある」と思える場。これ、"しがらみ"ってものが絶対ついてまわるんでしんどいではあります。
場、って必ずしも現実の自分の身の回りのことでなくて、それこそネットの中にあっても良いはずなんだけどそうでない事の方が多いですよね。

トポスを失って、で、ネットと。ネットの自由さは賞賛されるべきなんですけど。年齢とか見た目とか、あるいは声が小さいとかどもってしまうとか、現実のコミュニケーションの場では不利になってしまうことから自由になれる。これは大きいと思う。

なんだけども。自由を獲得した僕らがそれでは個性の翼を美しく翔かせたかっつうとそんなことはなかったわけです。逆に恐ろしく均質化しちゃった。なぜか。トポスを失ってしまったから。

トポスを失った大衆社会は、みんな自分の存在意義が分からず、人は大勢いるのに個々人は孤独だという問題を抱える(https://www.kanaloco.jp/article/entry-43203.html)

意味付けを失い、ただ個人として浮遊しているような社会は極めて熱狂的になりやすく、過去の経験知に学ばず、他の人が言うことには耳を傾けない。社会学者が言うところの「カーニバル化した社会」です。瞬間的熱狂、断片的熱狂が繰り返し表出し、そこに何らかのイデオロギーや思想は存在しない。

自由になるどころか熱狂の一部になってしまった。こんなはずじゃなかったのに。自由を獲得した、けど責任からの自由だったりして「発言したのは私です」と誰も言わなくなった。悪口を言ったのは誰だ!と勢い行く振り向いたら何万人が同じ顔して立ってた、みたいな。

なんていうか誰かと繋がってるかと思ったら、誰も彼もが「一緒のもの」になったとでもいえばいいのかな。一緒なんだけどそれは繋がってるという意味じゃなくてただ同じなだけ。全く同じ顔の孤立した何万。

これを克服するには、やっぱり現実の場で現実の異なる誰かと話すしかないんじゃないかと最近強く思っています。

なんか妙な文章になりました...

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