2019年10月27日日曜日

たまには青臭いことを


自分には過ぎた持ち物がある。家。自分が独りだったらおそらく一生縁がなかっただろう。まさか家を買うとは思わなかった。

「要らなかったな」と頭をよぎることさえある。ローンを普段心配することはない。そういう金銭感覚がそもそもない。10000円で買うかどうか迷うレベルの感覚しか持ち合わせていないのでローンをイメージできないでいる。


それよりも「イヤんなったらどっかに逃げる」というのがやりにくくなったことの方がでかい。実際は家庭もあり(これも過ぎたるものか)急に逃避行に走るわけにも行かないが、「やりにくくなった」ことそのものが憂鬱だ。

夜中にリビングにいると「いい空間だな」と思うこともある。子供にとってはどうだろうか。2階があるから嬉しいだろうか。

僕が幼少期を過ごした家にも2階があった。なるほど、たいして嬉しくない。

僕は家が好きだっただろうか。家にいることは多かった。よく漫画を読んで過ごした。家の中に「好きな場所」は多分あったが家が好きだったかと問われると悩んでしまう。嫌いじゃなかったんだろうけど、意識をしたことがなかった。

兄が大学に進学して「円満に家を出る」手段を知った。ああそうか、何も啖呵を切って家を飛び出す必要はないのか。度胸のない僕には「進学して一人暮らし」はとても魅力的だった。

話を現在に戻す。逃げづらくなったがこれこそが「地域の人になる」ということなのかもしれない。賃貸暮らしよりは根付いてる感がある。

地域の人というのは僕が最近よく考えるフレーズだ。こどおじなんて言うけれど実家に留まることは尊敬に値する。僕は家から出てしまったけど、留まり地域の人と化すことはとても重要なことだ。ここ数十年、あまりにも多くの人が地域を捨て首都(圏)を拠点としたことはあきらかに失敗だった。全てを東京にというプロパガンダに乗せられてしまった自分が恥ずかしい。
おかげで逃げる先もなくなった。
いや実家まだあるけどね。
けど地域は確実に破壊されてしまった。

子供たちは実家から出ていくのだろうか。それとも彼らが20歳前後になるその頃には「実家から出ることが一人前」という幻想は破壊されているだろうか。

にしても。「逃げらんないのはやだな」という幼さはなかなか恥ずかしいかもしれない。しかし逃げが性分なのだろう。様々なことから逃げてきた、様な気がする。嫌なことからは逃げるのがいちばんだ。

書きながら「"逃げ"をコーディネートすることはできないだろうか」と考えている。

例えばベーシック・インカム。生活基盤が失われそうな時のセイフティネットだ。これが実現すればいやなことから逃げるのに大いに役に立つ。いやなことを他人に強いる人は淘汰され、やっぱりベーシック・インカムの恩恵に与るだろう。

逃げ道が多ければそれだけ生存が容易になる。

逃げのコーディネートかぁ。案外悪くない思いつきかもしれない。
世の中には「立ち向かえない」人だっていっぱいいるのだ。

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