わりかし多方面から意見が寄せられており、ちょっと保存しておこうと。いや、ほら、削除されそうじゃん。
(以下引用、というかコピー)
「緊急事態宣言」延長は国民のせいか
経済的補償なく進んだ政権の責任は
尾中 香尚里
新型コロナウイルスへの対応をめぐり安倍政権が発令した緊急事態宣言は、当初の目標だった「5月6日解除」を断念せざるを得なくなった。1日の政府専門家会議では「全国で1カ月の延長が必要」との方針で意見が一致したと報じられている。最初に東京など7都府県に宣言を発令した際に安倍晋三首相が自ら掲げた「2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせる」という目標を十分に達成できず、結果として宣言延長に追い込まれたのだ。
結果を出せなかった政権自身の責任を、彼らはどう考えているのだろうか。(ジャーナリスト=尾中香尚里)
安倍政権は、国民に対して一方的に義務を課し、痛みを与え、責任を果たすよう求めておきながら、自らが果たすべき責任を果たしたかについての評価が極めて甘い。自らの施策が効果を上げられなかったために、国民はさらに私権を制限され、大きな痛みを背負うことになるのに、そのことへの痛切な感情が全く感じられないのだ。
筆者は4月2日付の小欄(法的根拠なき「緊急事態宣言」が脅かす民主主義国家 安倍政権が国民のために今すぐやるべきこと)で、緊急事態宣言について「もういっそのこと(宣言を)出した方が、まだ『まし』なのではないか」と書いた。
私権制限を伴う宣言の発令を積極的に求めたいわけではなかった。だが、当時は政府や一部の地方自治体のトップが、外出や大規模イベント開催の自粛の要請を次々と勝手に発出していた。法律の裏付けもなく、議会のチェックも受けずに、行政による恣意(しい)的な「私権制限」が既成事実化していた。
こうした事態に筆者は強い危機感を抱いた。思いつきのように国民の私権を制限しておきながら、政治はそのことへの責任を誰も取ろうとしないのではないか。それならば、政府が新型インフルエンザ等対策措置法(新型コロナウイルス対策にも使えるよう、3月に法改正が行われた)に基づく緊急事態宣言を出し、私権制限に対する「国の責任」を明確にした方がまだ「まし」なのではないか、と考えたのだ。
ここで言う「国の責任」とは、私権制限で大きな打撃を受ける国民への経済的な補償である。補償によって将来への安心感が得られれば、外出や店舗の営業などを自粛しやすい環境が生まれ、感染の拡大を早期に止めることができる。自粛要請の期間を短く抑えることができ、長い目でみれば経済を守ることにもつながったはずだ。
ところが、安倍首相は「民間事業者や個人の個別の損失を直接補償することは現実的ではない」と発言し、むしろ「補償は行わない」という正反対のメッセージを強く打ち出してしまった。たまりかねた一部の地方自治体は、独自に休業補償の施策を用意したが、当然財源が足りない。自治体側は、政府が緊急経済対策で自治体向けに創設した総額1兆円の臨時交付金に期待した。すると、今度は西村康稔経済再生担当相が4月13日の参院決算委員会で「休業補償には使えない」と答弁し、さらに追い打ちをかけた。のちに方針転換したが、とにかく「補償」を嫌がる制限の姿勢だけは伝わった。
一方、コロナ関連予算を盛り込んだ初の予算となる2020年度補正予算案は、政権が目玉に掲げた「減収世帯限定の30万円給付」への世論の反発が高まり「閣議決定後の予算案組み替え」という前代未聞の事態に追い込まれた。「給付対象があまりに狭すぎる」というのが、反発の理由だった。
政権は、野党などが主張していた「全国民への一律10万円給付」を盛り込んで予算案を組み替えた。しかし、麻生太郎財務相は4月17日の記者会見で「手を上げた方に1人10万円」と発言。自己申告制で「受け取るも受け取らないも自己責任」という姿勢を打ち出し「必要な人に届くのか」という不安を抱かせた。住民票の世帯主の銀行口座に世帯全員分をまとめて振り込む、という方法も「ネットカフェ難民やDV被害者などは確実に受け取れるのか」という疑念を呼んだ。
補正予算は4月30日に成立した。しかし、組み替えもあり成立が大幅に遅れたことで「この規模ではとても間に合わない」という声が公然と出ている。
「支援策」について、安倍首相は、ことあるごとに「これまでにない規模」を繰り返す。だが、その言葉とは裏腹に、政権から聞こえて来たのは「できるだけ給付を抑えたい」というメッセージばかりだった。こうした政権の姿勢は、国民が安心して外出自粛や休業要請に応じることを難しくした。その結果が「すでに医療崩壊では」と専門家に言わしめる現在の状況である。
緊急事態宣言の延長とは、すなわち感染拡大防止に向けた政権の取り組みが失敗した結果だということに他ならない。
確かに今回の新型コロナウイルスの感染拡大は、かつてない規模の世界的な危機だ。すべてを政治の力で制御するのが無理なことは、誰にでも分かる。安倍首相が「ばばを引いた」という思いをひそかに抱いていたとしても、そういう思いを持つことを否定はしないし、ある意味同情もする。
だが、それを言い出せば、例えば東日本大震災と東京電力福島第1原発事故も、政治の力だけでは背負いきれない大きな危機だった。明らかに自らの手に余る「国難」級の危機であっても、逃げずに立ち向かい、結果を出せず理不尽な批判を受けても、それを受け止め耐えるのが、国民に選ばれた政治家の責務だと考える。
まして今回の危機において、安倍政権が国民の生命と暮らしを守るために、やるべきことをやり尽くしたと信じられる人は、一体どれだけいるのだろう。これまでの国内政治と違い、いま私たちは、世界の為政者たちが新型コロナウイルスという同じ課題にどう対応しているかを目の当たりにしている。比較対象がいくらでもあるのだ。
政治は結果責任を伴う。緊急事態宣言の発令という大きな政治判断によって、全国民の私権をここまで強く制限した以上「国民に痛みを強いる分、私自身も結果を出す」と宣言し、汗をかくべきだった。自らが定めた「5月6日まで」という期間内に、何らかの目に見える結果を出すべきだった。結果を出せなかったのは「要請を守らない国民のせい」ではない。国民が要請を守れるような施策を準備できなかった政権の側に、より大きな責任があるのだ。
ところがこの政権は、自らの失敗を省みるどころか、その責任を平気で国民に転嫁する。湘南の海に集まる人々や、営業を続けるパチンコ店に焦点を当てて「自粛に応じない」と嘆いてみせる。自省的ではなく、常に他罰的なのだ。
なるほど、パチンコ店が現在の状況で営業を続けることに疑問を抱く人は少なからずいるだろう。だが、繰り返すが、この問題は「営業を続けるパチンコ店」以上に「パチンコ店が安心して休業できる環境を作れなかった政権」の側が責任を負うべきものだ。
そうした自省の心は、この政権の誰からも全く感じられない。安倍首相は4月30日、「ある程度の持久戦は覚悟しなければならない」と記者団に語ったが、あえて問いたい。
誰のせいで持久戦になってしまったのか。自ら決めた「6日まで」を守れず、国民にさらなる痛みを与えることへのおわびの言葉はないのか。
緊急事態宣言は安倍政権にとって、はなから「国民を統制する手段」でしかなかったふしがある。だから「医療崩壊を防ぐためにPCR検査の件数を増やす」などの「政権がやるべきこと」でなく「外出自粛要請」などの「国民がやるべきこと」ばかりがやたらと強調された。ろくな「見返り」も用意せず、一方的に国民に義務と負担を求め、目標が達成できなければ「国民のせい」と言わんばかり。営業を自粛しないパチンコ店の店名公表(公表の権限は知事にあるが、各知事は政権と緊密に連携をとっている)などは、その最も分かりやすい例だろう。実際、西村経済再生担当相が4月27日の記者会見で、休業に応じないパチンコ店の事例に触れて「罰則を伴う強制力のある仕組みの導入」を検討する考えを示している。
対応の稚拙さ以上に、この政権の「心根」がやるせない。
国民の側が感染の恐怖や将来の生活への不安におびえているのに、その国民の生命に責任を持つべき政権の側が、自ら掲げた目標を守れなくてもその総括すらせず、自分たちは無傷のまま、国民には引き続き痛みを強いる。それが「緊急事態宣言延長」にみる政権の本質だ。
この政権が今後も、「緊急事態」の名のもとに国民の生殺与奪を握り続けるのかと思うと、ただ暗澹(あんたん)たる思いしかない。
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