2022年2月4日金曜日

 内田樹のファンだったのに最近すっかりご無沙汰だ。内田がつまらなくなったと勘違いしていたが私が彼の客層から外れたのだと思う。彼はむしろ相変わらず面白いはずだ。

 内田樹を面白がれないのはあまり上手くない。私自身がつまらん人間になっている可能性が高い。ネット言論という二重の意味で架空の界隈では内田樹を克服することがその第一歩になっている。克服とは、彼を鼻で笑うことだ。問題は架空の界隈の人間は全て彼の文章よりつまらない文章しか書けない。ということは私が内田樹に飽きたということは面白くない側に行ってしまったことを意味する。

 架空の業界人はよく「ブルジョワ左翼が清貧を賞賛する」ことを非難する。日本は人口が減ってる斜陽の国なんだから、売上が伸びるなんて無理。利益ばっか追い求めないでのんびり行こうよ。と、いうのが清貧志向だ。爺さん婆さんはそれでいいかもしれない。蓄えがあるから、周りが貧しければ自分の財産の価値は上がる。老人の勝ち逃げだ。人口が減っていたって貧しくならない方法はあるはずだ。私たちはなんとかなるが私たちの世代が老人の妄言を真に受けてしまうと次の世代は貧困まっしぐらだ。それは避けねばならない。

 だが一方で清貧は私にとって非常に魅力的でもある。一部分ではあるが。なぜって、私は働くのが嫌いだからだ。それに尽きる。なんかもう、稼ぐとか儲けるとかどうでもいいじゃん。

 またコヴィッド・ナインティーンによって資本主義は「死んでも立ち止まれないシステム」であることを露呈した。この二年、感染拡大防止か経済活動か、という二項対立が当たり前のように何度も登場した。経済活動が停滞すると病気の感染よりも多くの人が死ぬ!私だってそれくらいわかるが、それはシステムそのものがおかしいということだろう。命とカネが当たり前のように天秤にかけられ、しかもカネが優先される。でないと命が失われる。経済活動の基礎は健康な市民であって、天秤にかけること自体がおかしいはずだ。しかし実際は正反対で市民の健康はカネが基礎になっている。カネは血液であり臓器であり脳である。私たちを解剖すると紙幣でできた内蔵が取り出される。

 自分の子供がさらに貧しくなるのは嫌だが現在の特攻玉砕経済システムこと資本主義にもうんざりする。だから金儲けなんてほどほどでいいじゃん、もっと別のことも考えようよと言いたくなる。

 そんな時、内田樹はまた輝き出す。そしてそれを陳腐に感じる時、私たちは特攻の準備を始めている。

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